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Posted by ミリタリーブログ  at 

2014年07月14日

ウエスタンアームズSCW ゴールドマッチⅡ/ロイヤルブルー+

このモデルは、SCW ゴールドマッチⅡ/ロイヤルブルー
に、ケミカルアイボーリーグリップを付けたものだ。

少し、洒落た、イメージだ、これをベルトに挿すのもいいかも、

それか、まだホルスターをオーダーするかだ。
  


Posted by テキサスビル  at 18:17Comments(0)

2014年06月30日

オーダーした、カートリッジループ付きタバコケース

my.case


私がオーダーして、カートリッジループ付きタバコケースを鬼武者さんに作ってもらいました。

以前作ってもらつたホルスターとお揃いのケースで格好良い出来でした。

鬼武者さん、 ありがとうございました!!

今度のアジトのがすぶろには、このペアて゛、參加したいとおもいます。



今度はガウチョナイフ「フアッソン」の鞘ををかんがえてみたいです、  


Posted by テキサスビル  at 12:41Comments(0)

2014年06月15日

ガスブロ 祭り、銃

今日は、ガスブロ祭りにつかう、銃をえらんでいた、
メインは、
ウエスタンアームズ



コルトM1911 ゲッタウェイと、マルゼン


CA870 ストックだ、あと、コルトビズリーをつかうことにした。

服そうはウエスタンスタイルでいくことにした。
  


Posted by テキサスビル  at 17:13Comments(0)

2014年05月21日

モーゼルC96

モーゼルC96





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モーゼルC96




モーゼルC96



概要



種類

軍用自動拳銃



製造国

ドイツ帝国



設計・製造

モーゼル社



性能



口径

7.63mm



銃身長

140mm



使用弾薬

7.63x25mmマウザー弾



装弾数

10発、20発



作動方式

シングルアクション
ショートリコイル



全長

308mm(ストック装着時630mm)



重量

1,100g(ストック装着時1,750g)



銃口初速

430m/s


モーゼルC96(Mauser C96)は、ドイツ帝国で開発された自動式拳銃である。




目次
[非表示] 1 開発
2 設計
3 運用 3.1 型式名について

4 バリエーション
5 登場作品
6 関連項目
7 脚注


開発[編集]

モーゼル社のフェデル兄弟(フィデル、フリードリヒ、ヨゼフ)が基本設計を行い、1895年に特許を取得、1896年よりC96すなわち「96年設計型」(Construction 96)として生産が開始された。その最大の特徴となっているトリガーの前にマガジンハウジングを持つスタイルは、当時グリップがマガジンハウジングを兼ねる方式が特許取得済みだったためとも言われている。このデザインは重心が前にある為に射撃競技銃のように正確な射撃が可能であり、ストックを併用すると代用カービンとして使用できた。「箒の柄(ブルームハンドル)」とあだ名された独特の形状をしたグリップは、掌の小さな小柄な民族でも関係なく使用できる利点があり、そのまま採用され続けた。

設計[編集]





ストリッパークリップを付けた状態
使用する.30モーゼル弾(7.63x25ないし、7.62x25。資料によって表記が異なる)は、ルガーP08の原型となったボーチャードピストルでボーチャードが開発したボトルネックリムレスカートリッジがベースになっている。この弾は、初速が高く、口径の割に高威力である反面、銃身が過熱しやすいという特徴がある。

マガジンへの装弾方法は当時のボルトアクションライフルに似ており、マガジンが空か最終弾を撃ち尽くしコッキングピース(一般的な自動拳銃のスライドに相当)が後退したホールド・オープン状態から弾丸が10発まとめられたクリップを排莢口に差込み、指でマガジンに押し込む。マガジンにはダブル・カラム方式で収納される。その後クリップを抜き取るとボルトが前進してチャンバーに第一弾が送り込まれるようになっている。コッキングピースをホールドするパーツはないためクリップなしでの装弾は事実上できない。また、ホールド・オープンしているモーゼルをクローズするのにも最低限クリップが必要である。最終弾を打ち出すまで弾丸の補給ができない。ただし、片方の手でスライドを後退させたまま、同じ手で工夫して固定させておけばクリップ無しでも1発ずつの装弾は可能である。

セーフティレバーはハーフコックおよびフルコックでかけられる。前期型はセーフティを上に押し上げるとOFF、後期型は下に押し下げるとOFFなのでこれで前期型と後期型の区別がつく。また、ボルトとファイアリングピンの長さは同じなので静かにハンマーを戻せば暴発しない。M1930でセーフティレバーに改良が加えられ、ロック状態ではトリガーを引いて、ハンマーを落としても、ファイアリングピンを打たないようになっている。このため、M1896(前期型)とM1930(後期型)の二つのカテゴリーに大別する事が多い。構造は全て金属パーツとスプリングの噛み合せでできており、ネジはグリップで使用している一本だけである。付属のクリーニングロッド一本で、分解清掃可能となっている。

距離を調整できるタンジェントサイトを装備しているモデルが多いが、これはストックを取り付けたときを前提としたサイトになっているのでストックを付けずに撃つ場合は標的が20m先の場合、20-30cmぐらい下を狙う必要がある。

運用[編集]

当時信頼性の低かった着脱弾倉式に比べてモーゼルC96の固定弾倉方式は信頼性が高く、また、他の自動拳銃に比べて倍近い価格だったことや、その目を引くデザインからステータスシンボルとも見なされていた。そのため、モーゼルC96は20世紀前半に最も知られた自動拳銃の1つとなった。

構造上、大量生産には不向きと見なされた為にドイツ帝国軍の制式拳銃には選ばれなかったものの、当時としては多弾数だったこと、弾速の速い高速弾だったこと、ストックをつけたときの有効射程が200mを越えることなどから自動式カービンに相当するポジションを担う実用的な銃としてアジアを中心に広く愛用され、世界数ヶ国でコピー製造された。スペインのアストラ社もコピー品を生産しており、アストラM900として販売している。また、中国ではトンプソン・サブマシンガンと弾薬を共用できる.45ACP弾仕様のモデルが山西省軍閥の工廠で生産されている。

なお、ブルームハンドルのフルオートモデルを先に開発していたのはアストラ社であり、マーケットを確認したモーゼル社が追従する形となっている。

馬上などでも使いやすいということで、清朝末期以降の中国の軍人や馬賊にも愛用された。同銃は100万丁以上生産され、旧式化してもなお中国を最大のマーケットとして1936年まで生産され続け、チャーチル・金日成・ホーチミンといった当時の著名人にも使用されている事でも有名である。





モーゼルC96で射撃訓練をする日本人警察官の夫人たち
中国戦線で大量のC96を鹵獲した日本軍では、1940年(昭和15年)2月から口径7.63mmのモデルに「モ式大型拳銃」の制式名称を与えて準制式拳銃として採用しており[1]、1943年4月(昭和18年)からは弾丸も「モ式大型拳銃実包」として国産された。

中国で大量に鹵獲され、その多くが私物として日本に持ち込まれたため、戦後も一部の将校達は隠匿し続けていた事も判明しており、ソ連崩壊後に自主的に警察へ提出されたり、遺族が発見する事が多い事でも知られている。

設計の一部(閉鎖機構)や弾丸の構造が、日本の南部式自動拳銃などに影響を与えているが、形状は大きく異なっている。

型式名について[編集]

モーゼルC96には多数の派生型が存在するが、これらにモーゼル社が正式な型式名を付けなかった。そのため、現在目にする型式名は後世のコレクターや研究者の便宜上の分類であったり、販売代理店の付けたものも多い。モーゼル・ミリタリーという通称も広く知られているが、実際には軍用拳銃市場よりも民間銃器市場で取り扱われることが多かった。

C96も民間銃器市場向けの名称で、軍用としてはM96という名称が用いられた。また、単にC96と呼んだ場合、1896年の初期型から、1930年のユニバーサルセーフティを備えた後期型、さらには広義にとればフルオート機能を持つ1932年製も含んでしまう。その為、マイナーチェンジなどの細かい違いを考慮するために「M+発売年」で語られる事も多い。

バリエーション[編集]





モーゼルC96"レッド9"ストック付き
ルガーP08ほどではないが、多種多様なバリエーションを持つ。
モーゼル・ミリタリー 9mm(M1916) ドイツ軍制式拳銃弾の9x19mmパラベラム弾用に改造されたモデル。グリップに赤字で大きく「9」と刻印されているため、「レッド9」と呼ばれた。両大戦でドイツ軍が使用。補給上の都合から、ワルサーP38、ルガーP08と弾を共有させたとされる。なお、軍によって公式に使用された兵器ではあるが、制式採用はされていない。 ボロ・モーゼル(Bolo Mauser) ロシア向けに輸出されたモデル。グリップがやや太く、バレルは4インチに短縮されている。「ボロ」は「ボリシェヴィキ」の略で、ロシア革命前後にボリシェヴィキとその敵対勢力双方に好んで用いられた事による。 ボロ・モーゼル 6ショット ボロ・モーゼルの弾倉を6連発にして扱いやすくしたモデル。 モーゼル・フラットサイドモデル C96の側面の凹凸をなくして磨き上げたモデル。バリエーションとして作られたのか、単なるコストダウンなのかは不明。中国ではその鏡のような磨き上げた側面から"大鏡面"の別称がつけられた。 モーゼル・ライエンフォイヤー(Mauser Reihenfeuer/M713/M1931) 形式名は"M713"であるが、シュネルフォイヤーの前のモデル。モーゼル社での社内名称はM1931。"ライエンフォイヤー"とは、「連射」の意味。製造は1931年。 このモデルから、フルオートによる弾数消費に対応するため、マガジンが脱着式となり10発と20発弾倉が用意された。フルオート射撃時の振動でセレクターが勝手に切り替わってしまうなど欠陥が多かった失敗作で、短期間で生産中止となった。 モーゼル・シュネルフォイヤー(Mauser Schnellfeuer/M712/M1932) "シュネルフォイヤー"とは、「速射」の意味。フルオート射撃が可能なマシンピストルであり、俗にM712と呼ばれるモデル(M712は、アメリカの代理店ストーガー社が付けた型式名)。1932年に製造された事からM1932とも呼ばれる。ライエンフォイヤーの欠陥を完全に改めたモデル。 M713と同様、フルオート射撃機能の採用を受けて10発ないし20発の着脱式マガジンが用意されたが、従来通りのクリップによる装填も可能。なお、現存する20発弾倉の数は希少である。フルオート射撃では振動が大きく、ストックを使用し片膝を突いた姿勢でも射線の維持は困難であり、近接戦闘で弾幕を張る以外の目的には適さないとされる。中国の遊撃隊兵士は、その振動を利用して銃身を水平に倒し、横方向に掃射する撃ち方も発想された。また、中国ではそのフルオート/セミオート射撃機能から"快慢機"の別称がつけられた。その中の20発弾倉装着型は大型の弾倉から"大肚匣子(腹が太いモーゼル拳銃)"の別称をつけた。 短機関銃より携行性に優れ、通常の拳銃よりも強力な火力を発揮できたため、短機関銃の代用たる装備としても利用された。ドイツ国内では、1940年にドイツ空軍が7,800挺を購入したが、砲兵部隊のオートバイ伝令兵にサイドアームとして供与した程度である。また、当時のドイツ空軍降下猟兵の兵士は降下の際に拳銃や手榴弾程度のみ携行し、小銃など主兵装はコンテナに詰めて別途投下するものとされていた。その為、コンテナを回収できない場合でも、カービンや短機関銃を代用出来るシュネルフォイヤーを所持していた兵士もいた。武装親衛隊でも短機関銃不足に対する補助兵器として一定数を購入している。7.63x25mmマウザー弾を使用するタイプがモデルガンで一般的であるが、9ミリルガー弾を使用するタイプもある。 モーゼル・M714(正式名称不明) C96の弾倉着脱式、機関銃機能を除いたM712というモデル。モーゼル社の製品ではあるが軍用目的ではなく、アメリカなどへの輸出や護身用として販売されたモデル。ドイツの銃器マーケットでも稀に見ることができるが、C96やM712と比べれば知名度は低い。アンティーク銃のコレクターでも「初めて見た」という言葉がでたほどである。実際、どのような経緯でこの銃が開発されたのか今もって不明である。 山西17式 20世紀初頭、中国は多くの軍閥による群雄割拠の状態にあり、山西省は山西都督の閻錫山率いる軍閥が実効支配していた。閻は彼らにとって事実上の首都である太原に近代的な兵工廠を設けた。山西軍閥は太原兵工廠で.45ACP弾を使用するトンプソン短機関銃を生産していたが、同時に採用していたC96拳銃は7.63mm口径弾を使用しており、弾薬の供給に支障を来していた[2]。 そこでC96を.45ACP弾に対応させる改良を施し、弾薬供給の単純化を目指した。この45口径拳銃は17式と名づけられ、1929年から太原兵工廠にて生産が開始され、1930年代半ばまでに月産400丁が製造された[3]。 17式は左側面に「壹柒式」の刻印、右側面に「民国拾捌年晋造」の刻印がある点でC96と区別できる他、トリガーガード下で広がる大型の10発装填マガジンが外見上の特徴となっている。装填時には5発留めクリップ2つを使用する事が多かった。これは馬賊や他の軍閥に対する防衛の為、鉄道警備隊などに対してトンプソン短機関銃と共に支給された。 ほとんどの17式は国共内戦で紅軍が勝利した後、共産党の規約により廃棄されたが、一部は海外へ輸出された。凡そ8,500丁の17式が太原兵工廠で生産されたとされる。しかし、実際に山西軍閥が生産したものの他、1990年代に中国北方工業公司がアメリカのコレクター向けに製造しており、正確な生産数については議論がある。 漢陽製C96 1923年、漢陽兵工廠ではC96のコピー銃の製造を開始し、最終的に13,000丁程度を生産したと言われている。このモデルも17式同様に正確な生産数は分かっていない。
  


Posted by テキサスビル  at 14:33Comments(1)

2014年05月07日

5月7日の記事

ウィンチェスターM70





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ウィンチェスターM70




ウィンチェスターM70(24インチモデル)



ウィンチェスターM70



種類

狩猟用小銃



製造国

アメリカ合衆国



設計・製造

ウィンチェスター



仕様



種別

汎用小銃



口径

7.62mmほか



銃身長

660mm



使用弾薬

7.62mm×51NATO(308ウィンチェスター)



装弾数

3発/4発/5発



作動方式

ボルトアクション方式



全長

1050mm



重量

4350g



銃口初速

850m/秒



歴史



製造期間

1936年 -



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ウィンチェスターM70、またはモデル70 (Winchester Model 70) とは、1936年にM54の後継としてウィンチェスター社が販売したボルトアクションライフルである。




目次
[非表示] 1 概要
2 ベトナム戦争による変革
3 Pre'64 Model 70
4 現在のM70
5 登場作品 5.1 小説
5.2 アニメ
5.3 ゲーム
5.4 映画

6 関連項目


概要[編集]

ウィンチェスターライフルと並び、ウィンチェスター社を代表する商品である。元々は狩猟用として開発されたが、ベトナム戦争ではアメリカ海兵隊の狙撃チームに採用された事でも有名で、当時の狙撃銃はこのM70一本に絞られていた。

元となったのはモデル54で、これは同社が新しく開発した.270ウィンチェスターという新しい弾薬のために作られた。このM54を大型化し、多様な種類の弾薬に対応させたのがM70である。非常に優れた命中精度と信頼性を誇り、後述する理由によりレミントンM700が台頭してくるまで、ボルトアクション・ライフルのスタンダードとなっていた。

現在までに作られたのは、22ホーネット、22-250レミントン、223WSSM(Winchester Super Short Magnum)、225 ウィンチェスター、220スウィフト、243ウィンチェスター、243WSSM、250-3000サヴェージ、25-06レミントン、25WSSM、257ロバーツ、264ウィンチェスター・マグナム、270 ウィンチェスター、270WSM(Winchester Short Magnum)、7mmモーゼル、7mmレミントンマグナム、7mmWSM、300サヴェージ、30-06スプリングフィールド(M1ガーランドと同じ)、308ウィンチェスター、300H&H(Holland and Holland)マグナム、300ウィンチェスター・マグナム、300WSM、300レミントン・ウルトラ・マグナム、325 WSM、338ウィンチェスター・マグナム、35レミントン、358ウィンチェスター、375H&Hマグナム、458ウィンチェスター・マグナムと、非常に種類が多い。

また銃床もレミントンM700のものを流用できるようになっているものもある。

ベトナム戦争による変革[編集]

狩猟用として開発されたウィンチェスターM70は、同一の作動システムで多様な口径に対応するという、当時としては珍しかった特筆すべき点を持っていた。特に.308ウィンチェスター以上となれば、バイソンのような大形の獲物を倒す威力を持っており、加えてスコープを取り付けられるライフルとしては比較的安価だったため、アメリカはもちろん、世界中のハンター達に愛用された。

転機が訪れたのは、ベトナム戦争において海兵隊の狙撃チームに採用された時である。当時アメリカ陸軍ではM14からフルオート機構を外してスコープを搭載したM21を採用していたが、海兵隊はより長距離狙撃の精度を求めてウナートルまたはライマン社製外部調整式8倍スコープを搭載したM70をスナイパーライフルとして採用した。特にM70を使用したスナイパーの中でもっとも有名なのは、恐らくカルロス・ハスコックであろう。彼はベトナム戦争において優秀なスコアを残し、その戦いの殆どにM70(.30-06モデルといわれている)が追随したのである。

だが、1964年にウィンチェスター社はその方針を大きく見誤ってしまう。大口の契約を取り付けられたウィンチェスター社は、軍を通じてレミントンやスプリングフィールドといった同業の他社にも製造ラインを設けさせた。
大量の受注に対応するためM70全体の製法を大幅にリファイン、エキストラクター構造、セフティノブ形状、複雑な削りだし行程によるレシーバーの形状を簡素化する等各部コストダウンを図ったマイナーチェンジモデルをニューM70として発表、実質的には製品の粗悪化を招いてしまう。これは当時M70を採用していた軍はもちろん、民間の市場にも憤慨と共に拒絶される事になってしまった。
また、この時ウィンチェスターの製造技術を学んだレミントンが、現在まで大ヒットセラーとなるレミントンM700を販売するという皮肉な事態が発生する。レミントンは、M70が大量生産によって品質低下という致命的な劣化を発生させたのに対し、各パーツの精度によって値段の異なるモデルを複数用意するという方法によって品質の低下を防いだ。

海兵隊はウィンチェスターM70からレミントンM700に乗り換え、世界中のハンター達もそれに倣った。ボルトアクション・ライフルのスタンダードを築き上げたウィンチェスター社は、その経営方針の誤りによって、誰にも見向きのされない存在となってしまったのである。

Pre'64 Model 70[編集]

ウィンチェスターM70に関する話として、Pre'64 Model 70(64年より前のモデル70)という記述が度々見受けられる。前述した事件によってその品質が劣化し、信頼を失ってしまったウィンチェスターM70だったが、マイナーチェンジ以前の旧型モデルにコレクターやハンター達の人気が集中。これをこぞって追い求めたのである。
pre'64モデルにも製造年式により各部形状に変遷が見られ、プレウォー(第二次大戦前型)、トランジョン(過渡期)、ポストウォー(戦後型)等さらに細かい年式の識別が行われる。
製造年代を見分ける方法は製造時に打刻されるシリアルナンバー、各部品の形状等でおおよその判別が可能であるが詳細な記録に残っていない変更や正確な製造数等不明な部分も多くありM70の研究書も多く発行されている。

現在のM70[編集]

その後、ウィンチェスター社は長らくこの64年型以前の品質を取り戻す事が出来なかった。市場に拒否された低品質M70の在庫を大量に抱えて、経営を立て直す事が出来ないという悪循環に陥ってしまったのである。その後、1990年代に入るまで、ブローニング社に買収されてハースタルグループの傘下に入るなど、ウィンチェスターには不遇の時代が続いている。

1992年、ウィンチェスターは30年の歳月を経て、旧型モデルの形状を再現したモデルをM70クラシックとして復活させた。当時誰もが追い求めた職人芸を蘇らせるのには、最先端技術だったCNCマシンの活躍があったといわれている。

また本家ウィンチェスター製M70クラシックよりもさらにオリジナルpre'64モデルを正確に再現したクローンモデルも複数のメーカーよりラインアップされている。

登場作品[編集]

高精度であり、カルロス・ハスコックなど伝説のスナイパーが運用していたこともあって、小説、FPSなどに比較的よく登場する。

小説[編集]
極大射程(上)
無法地帯

アニメ[編集]
ルパン三世VS名探偵コナン

ゲーム[編集]
Fallout3
ハンティングライフルという名称として登場。また、続編のFallout: New Vegasにも登場する。 ペーパーマン
グランド・セフト・オートIII
ゴーストトリック
サイレントヒル2

映画[編集]
イレイザー
後半で主人公のジョン・クルーガー連邦保安官と手を組んだマフィアの狙撃手の愛銃がスコープ付きのM70。最新鋭のEM銃(レールガン)で武装した敵を一弾で仕留めた。 エグザイル/絆
チェンがスコープを装着して使用。 ガントレット
ザ・シークレット・サービス
サンタモニカ・ダンディ
ジョン・カーペンターの要塞警察
スピード
ダーティハリー
主人公のハリー・キャラハン刑事が連続狙撃殺人犯「スコルピオ」に対抗すべく、.458ウィンチェスター・マグナム仕様のM70を用意。スコルピオを狙撃する際には時間が夜だったのと、スコルピオによる狙撃の妨害を兼ねてライトを照射した。 バベル
ポストマン (1997年の映画)
マッドマックス
  


Posted by テキサスビル  at 13:53Comments(0)

2014年05月07日

ウィンチェスター・リピーティングアームズ

ウィンチェスター・リピーティングアームズ(英:Winchester Repeating Arms)はアメリカ合衆国の銃器メーカー。




目次
[非表示] 1 歴史
2 ウィンチェスターミステリーハウス
3 代表的な製品 3.1 ライフル
3.2 ショットガン

4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


歴史[編集]

1850年代(遅くとも後半)に創設者のオリバー・ウィンチェスターが、ボルケニック・リピーティングアームズ(のちスミス&ウェッソン)からレバーアクションライフルの権利を譲渡され、コネチカット州ニューヘイブンに工場を設立したのが始まりとされる。「ウィンチェスター」の社名で正式に呼ばれるようになったのは1866年からである。

西部開拓時代から人気が高く、アメリカの狩猟用ライフルやショットガンの名門としてレミントン社などの企業と肩を並べている。中でもM1873レバーアクションライフルはコルトSAAと共に「西部を征服した銃」として有名で、今なお西部劇ファンから親しまれている名銃である。

なお、レバーアクションライフルを発明したのも創始者であるオリバー・ウィンチェスターであるとされるが、実際にレバーアクション機能を発明したのは銃器デザイナーのジョン・ブローニングであり、ウィンチェスター社は彼からレバーアクションライフルの製造権を買取り販売しただけである。

1960年代には旧来の元折式やレバーアクション式よりモダンな型式であるレミントンのポンプアクション散弾銃M870や、ボルトアクションライフルのM700との価格競争で圧され始め、米国内の製造工場でも人件費の高騰やストライキに悩まされ、低迷期に入る。この時期、ウィンチェスターは人件費が安く技術力の素地がある世界各国の銃器メーカーにライセンス生産を委託する事で生き残りを模索し始め、極東方面では1961年に日本国内でニッコーブランドを展開していた晃電社(ニッコーアームズ)と、ウインチェスター子会社で弾薬・商標権管理を担当していたオリン・コーポレーションの50%出資でウインチェスターブランドの元折散弾銃をOEM製造するオリン晃電社を設立している[1]。しかし、1963年から1964年に掛けて殆どの製品ラインナップで大規模なモデルチェンジを断行、構造面[2]でも最終仕上げでも全体的に品質が落とされたこのモデルチェンジは極めて不評で、ウィンチェスターM70では1964年以前の銃をプレ64と称して珍重する風潮さえも生まれた。1980年代には人件費に起因する業績の低迷が極致に達し、1981年には米国内のウインチェスター直営工場を子会社のU.S.リピーティング・アームズへ売却した。オリン・コーポレーションはこの間も一貫してウインチェスターブランドの商標権を保持し続けていたが、日本のオリン晃電社は1979年の銃刀法規制強化に伴う日本国内の銃器販売数半減の影響で、親会社の晃電社が1981年に整理会社となり、実質的な製造能力を失ってしまう[3]。U.S.リピーティング・アームズの米国内製造部門も1989年にはベルギーのFNハースタルに買収された。

現在はウィンチェスター本社は存在せず、代わりにU.S.リピーティング・アームズがウィンチェスター社として同社製品を販売していたが、2006年1月14日に経営破綻、設立以来140年に渡り存続していたニューヘイブン工場は閉鎖され[4]、最後まで生産されていたM94レバーアクションライフル、M70ライフル、M1300レピーター等は全て製造終了となった。

2006年8月15日、ウインチェスターの商標権を管理していたオリン・コーポレーションはブローニング・アームズとの間で新たにライフルと散弾銃のライセンス生産契約を締結した事を発表[5]。しかし、ニューヘイブンの工場は再開されなかった。ブローニング・アームズのライセンス生産を担当する日本のミロクにおいて、スライディングブロックアクションのM1885ライフル、レバーアクションのM1892ライフル、M1886ライフル等の製造が委託され、日本及び米国市場への輸出が行われる事となった[6]。

2010年にはFNハースタルによりM70ライフルの生産がサウスカロライナ州コロンビアの新工場で再開、同年夏にはM94ライフルと、M1300レピーターの改良版(ウインチェスターSXP)の製造販売が再開された。

ウィンチェスターミステリーハウス[編集]
詳細はウィンチェスター・ミステリー・ハウスを参照。
これまでの様々な戦争・紛争で、米軍とその同盟国など西側諸国はウィンチェスター製の銃を多用してきた。そのため、これらの銃で射殺された犠牲者が出るたびその怨念がウィンチェスター家を呪いに集まり、その数は増える一方のいわば悪霊の溜まり場と化したという霊能者の言葉を信用したウィンチェスター未亡人が、それら悪霊の居場所として拡張を繰り返し建築した豪邸。ウィンチェスターミステリーハウス。単にウィンチェスターハウスともいい、カリフォルニア州の歴史的重要建造物に指定されている。

二代目のウィリアム・ウィンチェスター夫妻の子は生後一ヶ月で死亡、ウィリアムも後を追うように日を待たずして死亡。その他にも二代目夫妻の周囲では良からぬ出来事が続いた。疲弊しきったSarah Winchester(サラ・ウィンチェスター)夫人は、霊媒師に相談。すると霊媒師は告げた。「続発する災いの根源は、あなたがたが製造する銃器で殺害された犠牲者の怨霊がウィンチェスター家を呪いにやってくるため。災いから逃れる方法はただ一つ。西部開拓ではウィンチェスター銃が多用されたので犠牲者が特に多い西部へ引っ越し、怨霊を鎮めるためにその家を拡張し続け、霊魂の居場所を作ってやるしかない」と。夫人はすぐさまニューヘイブンの家を売却。現在のサンノゼはサウスウィンチェスター通り525番地に引っ越し、お告げの通り生涯に渡り実に38年もの間休むことなく増築を続けた。その結果、部屋数160、寝室40を有する4階建ての大豪邸と化した。豪邸内部は悪霊が侵入しにくく出て行きやすいよう、突き当たる階段や天窓が床にある部屋など奇怪な設計をし、さらには不吉とされる番号「13」を重視した階段や石畳などを多用したため、さながら迷宮を彷彿とさせる構造となった。

日本でも霊能者の宜保愛子がここで霊視するという心霊番組も放送された。また、「ローズレッド」(2001年 - スティーブン・キング原作小説とTV series)の舞台である幽霊屋敷のモデルにもなった。

ただ、多数の犠牲者を出した突撃銃のAK-47で知られるミハイル・カラシニコフや、ブローニングM2重機関銃のジョン・ブローニング、拳銃のデザートイーグルで著名なマグナムリサーチのジム・スキルダムなど、世界の銃砲メーカー一族の周囲ではこういった逸話はなく、なぜウィンチェスター家にだけ奇怪な現象が発生したのかは謎である。

「en:Winchester (disambiguation)」中の「Persons」にもウィンチェスターの関係者があるので参照すると良い。

代表的な製品[編集]

ライフル[編集]
M1860 ヘンリー・ライフル
M1866 イエロー・ボーイ
M1873
M1885
M1886
M1890
M1892
M1894
M1895
M1902
M1903
ブローニングM1918自動小銃
M1カービン
M52
M54
M70
M71

ショットガン[編集]
M1887
M1897
M1912
M21
M9410
M1200
M101
Super Xシリーズ
SXP

脚注[編集]
1.^ 栃木市 市長通信 第13号 オリン晃電社跡地購入問題について
2.^ 操作性向上を優先し、主に安全装置の機能性が省略・低下させられた。
3.^ 伊藤眞吉 「鉄砲の安全(その1)」『銃砲年鑑』05-06年版、270頁、2005年
4.^ Out With A Bang: The Loss of the Classic Winchester Is Loaded With Symbolism, Washington Post, January 21, 2006.
5.^ McLerran, Wayne. Browning Model 1885 Black Powder Cartridge Rifle; A Reference Manual For The Shooter, Collector & Gunsmith. (2008) TexasMac Publishing. ISBN 978-0-615-26561-2.
6.^ 株式会社ミロク:ショットガン&ライフル. Miroku-jp.com. Retrieved on 2013-07-21.
  


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2014年04月29日

Kar98k

Kar98k





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Karabiner 98 kurz (K98k)




Kar98k



概要



種類

軍用小銃



製造国

ドイツ
(チェコスロバキアやポーランドなど、一部占領国でも生産)



設計・製造

マウザー(モーゼル)社他、総計8社10工場



性能



口径

7.92mm



銃身長

600mm



ライフリング

4条、右回り



使用弾薬

7.92x57mmモーゼル弾



装弾数

5発



作動方式

ボルトアクション方式



全長

1,100mm



重量

3.9kg(単材銃床)
4.2kg(積層材銃床)



発射速度

発/分



銃口初速

760 m/s



有効射程

500 m


Karabiner 98 Kurz(カラビーナー・アハトウントノインツィヒ・クルツ, K98k, Kar98k)はドイツ帝国が1898年に制式採用した歩兵銃 Gewehr 98 から派生した騎兵銃型の一つであり、1935年6月に制式採用後、第二次世界大戦におけるドイツ軍の主力小銃として大いに活躍した、現在においても一部の国で使用されている傑作銃である。




目次
[非表示] 1 概要
2 系譜 2.1 Karabiner98a
2.2 Karabiner98b
2.3 モーゼル・スタンダードモデル1924
2.4 モーゼル・ドイツ郵政省用小銃

3 生産
4 Kar98kのバリエーション(派生型・類似型) 4.1 狙撃銃
4.2 チェコ製ライフル
4.3 FN モーゼル M1924
4.4 G40k
4.5 Volkskarabiner98(VK98)
4.6 その他試作型
4.7 民間向けライフル

5 登場作品 5.1 映画・テレビドラマ
5.2 漫画・アニメ
5.3 ゲーム
5.4 小説

6 参考文献


概要[編集]

Kar98kは通称であり、当時の軍マニュアル等によれば正式名称はKarabiner98kで、その略称はK98kである。Karabiner(カラビナー)は騎兵銃を意味し、98は母体となったGew98が制式採用された1898年を示している。末尾についているkはkurz(クルツ)、つまり短いを意味し、全体として「1898年式の短型騎兵銃」たるを示している。アメリカのカービン銃のカービンは、このライフルのカラビナーと同意である。騎兵は馬上射撃が求められるので、取回しのしやすさから短めの全長、また、背負った場合の安定性から負革が銃側面に存在すること等が、騎兵銃の形状の特徴となっている。これが転じて、後のドイツでは負革が銃側面に付く小銃をKarabinerと呼ぶことにもなっている。

口径は7.92mm、装弾数は5発のボルトアクション式ライフルである。制式採用時点で、アメリカ合衆国やソビエト連邦等では半自動小銃の実用化が進められており、既に旧式化しつつあったものの、命中精度や安全装置の設計に優れており、高い信頼性や生産性から1945年の終戦時まで生産が続けられた。その生産は、開発者であるモーゼル社の二つの工場の他、国内の複数の銃器メーカーはもちろんのこと、占領下の国外銃器工場まで動員して行われ、総生産数は1,400万丁を超える。

精度の高い個体は4~6倍程度の望遠照準鏡との組合せで狙撃銃としても威力を発揮し、戦争末期におけるドイツ狙撃兵は前進する連合国兵士の脅威となった。

系譜[編集]

Karabiner98a[編集]

Kar98a(Karabiner98a)は、Gew98の文字通りの騎兵銃型として1900年代初頭に採用された。銃身長が740mmであるGew98に対して、Kar98aは600mmでKar98kと同じであり、側面の負革や曲げられたボルトハンドル等、似た特徴もある一方、銃口近くから機関部薬室付近まで覆う木被(銃身覆い)や特徴的な叉銃用金具等、異なる点も多く有していた。





Kar98a
Karabiner98b[編集]

第一次世界大戦の敗戦と共にドイツにはヴェルサイユ条約により軍事的にも厳しい規制が課されることとなった。その下で新生ヴァイマル共和国陸軍(Reichsheer)は当初第一次世界大戦より残されたGew98を使用したが、1920年代初頭にいくつかの改良が加えられてKar98b(Karabiner98b)として採用されることとなった。Kar98bは銃身長がGew98と同じ740mmであったが、負革が側面に付けられたことからKarabinerと呼ばれた。またほとんどのKar98bは既存のGew98を改造したものであった。





Kar98b




Kar98kのボルトアクション部分
モーゼル・スタンダードモデル1924[編集]





Kar98k
第一次世界大戦後、世界の主力小銃の中心はそれまでの長銃身から短銃身へと移りつつあった。1920年代前半にはチェコスロバキアやベルギー等では短銃身のモーゼル式小銃を開発、多数を輸出するようになっていた。モーゼル社は、これに対抗すべく銃身長600mmのモーゼル・スタンダードモデル1924(Mauser Standard-Modell 1924)を開発した。本銃は、まさにGew98の短銃身版というもので、銃身長や改良された照門を除き、銃下側の負革や直線状のボルトハンドル等はGew98と同様であった。ヴェルサイユ条約の制約により、モーゼル社は本銃を未完成の部品として輸出し、スイスで組み立てを行った。

モーゼル・ドイツ郵政省用小銃[編集]

1933年、モーゼル社ではスタンダードモデルに更なる改良を施した。これが、社内記録に「ドイツ郵政省用小銃」(Gewehr für Deutsche Reichspost)として残るものである。本銃は、郵政省の財産を強盗や暴動から守るという名目で発注されたが、実質的にはドイツ再軍備への下準備に他ならなかった。その外見は、負革の固定金具の形状や機関部等の刻印が異なる以外はKar98kとほぼ同一であり、まさにその前身と言えるものであった。

生産[編集]





1944年フランスで撮影されたドイツ空軍の降下猟兵。小銃擲弾投射器付きのKar98kを持つ




A.Jackenkroll社製民間用Ajack4x90スコープ付Kar98k。ロシア戦線で撮影。
先述したとおりKar98kの制式採用は1935年6月で、6月21日発行の陸軍報(Allgemeine Heeresmitteilungen)に6月14日付け告示として記載されている。しかしながら実際の生産は、1934年に既に開始されている。そのメーカーはモーゼル社(Mauser Werke)の他、ザウエル社(JP Sauer und Sohn)の二社である。ただ、制式採用前のザウエル製Kar98kはバンド固定金具の形状が制式型と異なることが特徴となっている。その後製造メーカーの数は増え続け、途中製造を中止するメーカーもあったものの、1939年から1945年まで、総合計8社10工場においてKar98kの生産が行われた。その生産は、国内の他、オーストリアやチェコスロバキアにおいても行われた。

Kar98kの総生産数は、戦火や戦後の混乱で記録が失われていたり、また相互に矛盾する記録が存在することなどもあり、正確な数値は不明である。そのため、様々な推計値が存在するが、興味深いものとして米国のコレクターを中心に行われた、銃に刻印されたシリアルナンバー(一連番号)からの推計値がある。ドイツの小火器類は一定のルールに基づいてシリアルナンバーが刻印されている。現存するものについて、これをメーカーごとに詳細に記録し、集計することでその総数を推計する方法である。その結果によれば、Kar98kは1934年から1945年までで総数14,048,789丁生産されたとのことである。ただし、Kar98kはメーカー工場で生産された物だけがすべてではない。残されたGew98やKar98bの部品に新たにメーカー工場から供給された部品を組み合わせて各軍管区の兵站部等で製造された物も存在する。これらは上記数値には含まれていない可能性が高い。

Kar98kのボルトアクションメカニズムは、元祖のGew98時代から基本的に変わっていない。またその形態もKar98kとして採用された当初から終戦まで大きな変更はないが、戦火が激しくなるにつれて、当初は削り出し加工であった部品がプレス加工になる等、細かなバリエーションが存在する。また、1944年からはKriegsmodell(クリークスモデル)と呼ばれる戦時省力型の生産も開始されている。その一番の特徴は、着剣装置や銃床上のボルト分解用金具の廃止である。

Kar98kのバリエーション(派生型・類似型)[編集]

狙撃銃[編集]

狙撃銃として使用されたKar98kは、選抜された特に精度の高い個体が一部メーカーの工場または軍の兵站部において改造されたものである。これらには、多種多様な光学照準器(ライフルスコープ)及び装着器具(マウント)が使用されたが、特にスコープに着目すると次の3つに大別できる。
1.民間用スコープ 4倍率が主流であり、純粋な民間用生産品を転用したタイプと戦争後期に軍の仕様に基づいて生産されたタイプとがある。今日ではメーカーや型式、マウント種別に関わらずすべてZF39と呼称されることが多いが、これは不正確である。当時の軍資料によると、39型照準眼鏡ZF39(Zielfernrohr39)はカール・ツァイス社製の4倍率スコープであるツィールフィア(Zielvier)のみを指し、その他のスコープはツィールフィアも含めて市販照準眼鏡(handelsübliche Zielfernrohre)として一括りに総称されていた。

2.ZF41 41型照準眼鏡ZF41(Zielfernrohr41)は1.5倍率の小型スコープで接眼距離が長く、本来は通常の歩兵部隊の上級射手のために開発されたものであった。しかしながら実際には特殊任務に就く狙撃兵にも多数支給され、当然のことながらかなりの不評であった。それにもかかわらず、結局このタイプが最も多く生産され、使用された狙撃銃となっている。

3.GwZF4(ZFK43) 4倍率小銃用照準眼鏡GwZF4(Gewehr Zielfernrohr 4fach)は半自動小銃Gew43用に開発、制式採用されたもので、1944年にGew43がKar43と改称された後にこれもK43型照準眼鏡ZFK43(ZielfernrohrK43)と改称されている。戦争末期に軍はライフルスコープの生産拡大のために仕様の標準化を図り、その一環としてKar98kにもGwZF4を装着することが検討された。このタイプはほとんど現存しないことから、試作のみに留まったか、ごく少数の試験使用に限られたものと思われる。


チェコ製ライフル[編集]

チェコスロバキアのブルノ社(ドイツ名Waffenwerke Brünn)では、戦前からモーゼル式小銃Vz24やその短銃身型のVz33等を製造していたが、ドイツによる占領と共にそれらは細部をKar98kに類似させたドイツ型に修正して製造されるようになり、それぞれG24(t)、G33/40と呼称された。特にG33/40は山岳部隊仕様とされたが、いずれも1943年以降はKar98kの生産に一本化されることとなった。

FN モーゼル M1924[編集]

第一次世界大戦後、ベルギーのFN社でGew98を改良し生産したモーゼル式小銃。中南米諸国や中華民国などに輸出された。

G40k[編集]

1942年に軍はKar98kを更に短銃身としたG40kという新型小銃の試作命令を出した。その銃身長は490mm、全長は995mmであったが、ほどなく計画は断念され、28丁が試作されるに留まった。

Volkskarabiner98(VK98)[編集]

Kar98kの簡易戦時生産型で、大戦末期に中高齢者や少年によって編成された国民突撃隊の装備として作られたものである。ナチス党行政側の要請で、武器を確保するためにkar98kを生産していた工場から、在庫部品を民間へと下げ、そこで製作された。そのため、生産ラインや工場によりさまざまなタイプが存在し、従来のKar98kと同じように5発の弾倉を持つものと、単発式のもの、拳銃式のサイトから本来のサイトなどかなりの差異が見られたという。

(単発型諸元) 口径:7.92 mm 全長:1,031 mm 銃身長:528 mm 重量3.13 kg 初速:731 m/s

その他試作型[編集]
降下猟兵(空挺部隊)等における携行性の向上のため、蝶番による折り畳み銃床式のKar98kやG33/40。また、銃身と機関部の分離式のKar98kも試作。日本陸軍の試製一〇〇式小銃、試製一式小銃、二式小銃開発の参考になった。
MP43で使用された7.92×33mmクルツ(短薬莢)弾を使用するKar98k。
プラスチック銃床付きKar98k。

民間向けライフル[編集]

2009年現在、モーゼル社は民間向けにGew98/Kar98kアクションを忠実に再現した狩猟用ライフル「モーゼルM98ライフル」を販売しており、日本国内でもライフル銃として所持をする事が可能となっている。

また、中国の中国北方工業公司はKar98kを模した狩猟用ライフルをJW-25Aの製品名で製造している。ただし、Kar98kよりも全長が100mmほど短く、伴って銃身長も70mmほど短くなっている。また、使用弾薬は低威力な.22LR弾であり、装弾にはクリップではなく10発ないし5発装填の箱型マガジンを用いる。

登場作品[編集]

ドイツ軍の制式小銃だった為、第2次世界大戦を題材にしたものやドイツ軍が登場する作品に多く登場する。また第一次世界大戦を題材にした作品においても、Gew98の小道具の代用に用いられることもある。

映画・テレビドラマ[編集]
Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!
インディ・ジョーンズシリーズ
レイダース/失われたアーク《聖櫃》とインディ・ジョーンズ/最後の聖戦にてドイツ軍兵士が使用。 X-メン
ウルヴァリン: X-MEN ZERO
ウルフェンシュタイン
エアリフト
グラインドハウス
ナチ親衛隊の狼女に登場。 紅の豚
コンバット!
ドイツ軍兵士が使用。 人狼 JIN-ROH
擲弾発射機を付けて、グレネードランチャーとして使われた。 スターリングラード
エルヴィン・ケーニッヒが使用。 スパイ・ゾルゲ
戦争の犬たち
ザンガロ政府軍兵士が使用。 ハウルの動く城
王国兵士が使用。(Gewehr98) バンド・オブ・ブラザース
ドイツ軍兵士が使用。 ヒトラー 〜最期の12日間〜
ドイツ軍兵士が使用。 プライベート・ライアン
ドイツ軍兵士が使用。 ヘルボーイ
ライラの冒険 黄金の羅針盤
ワルキューレ
タイム・ジャンパー
バルトの楽園
ドイツ国内の場面でGewehr98が、チンタオ攻防戦の場面ではKar98kが登場。ただし後者は時代が合わない。 勝利への脱出
ドイツ軍兵士がスコープなしのものを装備。 沈黙の逆襲

漫画・アニメ[編集]
軍靴のバルツァー
ヴァイセン陸軍の装備。作中では連発式ではなく単発式である。また、金属製薬莢ではなく紙製の弾薬を使用している。 ココロ図書館
人類は衰退しました
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
逮捕しちゃうぞ the MOVIE
BLACK LAGOON
HELLSING
ミレニアム大隊が使用。 マスターキートン
最終回でルーマニアの村に残されていたものをキートン達が使用。 迷彩君
ヒストリカルゲームで登場。 ウォースパイト〜マルスの目〜

ゲーム[編集]
Alliance of Valiant Arms
カプセル商店で販売。スナイパーのメイン武器であるが、 現在はモシン・ナガンが実装されたため使用している人は少ない。 Wolfensteinシリーズ
コール オブ デューティシリーズ
バトルフィールド1942
ブラザー イン アームズシリーズ
メダル・オブ・オナーシリーズ
メタルスラッグ
オペレーション・ダークネス
戦場のカルマ
Men of War: Assault Squad

小説[編集]
旭日の艦隊
ドイツ兵が使用。 紺碧の艦隊
ドイツ兵が使用。 新・旭日の艦隊
ドイツ兵が使用。 新・紺碧の艦隊
ドイツ兵が使用。 鼠たちの戦争
ハインツ・トルヴァルトが使用。 蘇える金狼
怪盗クイーン、仮面舞踏会にて
ゲルブがジョーカーを狙撃するため使用(架空の「Kar98改」という名前で登場) 怪盗クイーンに月の砂漠を
ゲルブがピラミッドと逆ピラミッドの接点を狙撃するため使用(架空の「Kar98改弐式」という名前で登場)
参考文献[編集]
Law,Richard D,BACKBONE of the WEHRMACHT The GERMAN K98k RIFLE 1934-1945, Collector Grade Publications, Inc, 1993
Law,Richard D,Sniper Variations of the German K98k Rifle, Collector Grade Publications, Inc, 1996
Walter,John,THE GERMAN RIFLE, Arms and Armour Press, 1979
  


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2014年04月28日

ウエスタンブランドRockmount ロックマウントとジャステインローバーブーツ

私のお気に入りのブーツは、ジャスティン社のローバーブーツだ、そしてシャツはウエスタンブランドRockmount ロックマウントをお気にいりしている。
 とにかくこの二つに共通しているのは、すごくタフなっくりをしている。

この点はまだ、本場のものに日本製などでは、ついていけないのかもしれない、リアルカウボーイのコメントをきいてみたいものだ。 長い間に、自然に
この型にできあがってきたのかもしれない。
  


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2014年04月27日

コルトM1877(ライトニング)

稲妻と雷鳴と共に

このコルトブランドの最初のダブルアクションリボルバーは、シングルアクションリボルバーの影に隠れているが、豊かな歴史とバリエーションを持つ。
 
多くの有名な人物の最後の言葉は知られているが、他の著名人のそれは、最後の喘鳴にまじって発せられるのがただぼんやりと感じることができるだけである。例えば、1862年に48年の短い、しかし波乱に富んだ人生の後に死んだリボルバー製造業主、サミュエル コルト大佐の場合である。「ともかくダブルアクションは止めておけ。」 彼は死の直前にそうつぶやくことができた。というのは、彼はダブルアクションを装備したリボルバーを一生の間不利としか見ていなかったのである。それは特にこの領域における彼自身の実験が不満足に経過していたからである。個人的なフラストレーションがあり、技術的な失敗作が生まれ、この工場設立者の裁定は彼の社内に雷鳴のようにこだました。ヨーロッパの努力家がすでに長年ダブルアクショントリガーを改良しており、モダンなダブルアクションシステムの基盤が作られていたにもかかわらず(囲み記事参照)、コルトの工場は1877年になって初めてダブルアクション機能原理を持つ自社製リボルバーを発表した。…コルト大佐の死から15年後のことであった。

 この新製品はモデル1877という名称を得たが、その履歴はおそらくより早くからすでに始まっていた。この件に関し、ドイツ人コレクターでありM1877ファンのUwe Dorfleino」はウムラウト)はアメリカのコルト専門家Don Wilkersonの注意を受けてこう述べている。「本当に1877なのか? 21挺からなる最初の供給品は1877年1月1日にロンドンに向かった。つまりこのモデルはすでに1876年に開発され、製造されていたのだ。」 

隆起つきのバーズヘッド
 M1877は、それまでに作られた全てのコルトリボルバーと、そのトリガーメカニズムによってのみ異るわけではなく、グリップ形状によっても異る。というのは、コルトはその回転ピストル(注:「Drehpistolen」。リボルバーは狭義にはピストルに含まれないとされますが、厳密好きのドイツ人もときどきこの言葉を使っています)に40年にわたって丸く弧を描くグリップ後部を備えてきたからである(注:ストレートに訳そうとするとこうなりますが、これでは分かりませんよね。要するにSAAのようなグリップ形状のことです)。それに対しM1877はバーズヘッド(注:「Vogelkopf」。そのまんまです)グリップつきで登場し、その上部には特徴的な突出部があった。これ注:グリップ形状)を度外視すれば、6連発銃であるM1877は本質的には当時のアメリカ軍制式拳銃である、ピースメーカーとして知られる.45口径コルトM1873シングルアクションアーミーの縮小版であるかのような印象を与える。すなわち、例えばM1877の場合もSAAにならってシリンダーのチャンバーにローディングゲートから装填ができる。そしてこれにより、M1873の購入者は慣れる必要がない。M1877リボルバーの一部にも、同様にバレル右にエジェクターが、それに属するケースごとあるからである。

 もっとも、全てにあるわけではない(注:コルト)は、そのダブルアクションの初物に際し、英語では「エジェクターロッド」として知られるAusstosserを、そのリボルバーがショートバレルのときには断念していた。

バリエーション続々
 コルトの専門家R.L.Wilsonによれば、コルトはM1877を1.5~10インチまでの13の銃身長で製造した(1インチは2.54cm)。これでは充分でない。コルトはこのリボルバーを銃身長領域4.5、5と3/8、6インチではあるものはエジェクターつき、またあるものはなしで製造した(頑住吉注:後に改造されたものはともかく、製造時点では4.5インチより短い銃身を持つものには全てエジェクターはなく、6インチより長い銃身を持つものには全てエジェクターがあったということでしょうね)。そしていくつもの弾薬仕様があった。大部分は.38ロング、ショートコルト、および.41ロング、ショートコルト仕様で登場した。約200挺の.32、一点もののような.38-40ウィンチェスターおよび.38S&W仕様の両銃はレア品目に該当する。専門取扱い商であるオハイオ州のKittredgeのような会社はM1877に通称を当てはめている。すなわち、.38口径を「ライトニング」(稲妻)と言い、.41口径を「サンダラー」(雷を鳴らすもの)と言っている。だが、アメリカの専門文献が示すように、例えばR.L.WilsonやNorm Flaydermanは今日、「ライトニング モデル オブ 1877」のような名称をシリーズ全体の上位概念として使用している。

 この銃の多様性を口径および銃身長によって(注:のみ)分類する人は正しくない。差は仕上げ、サイト、グリップ、刻印にも指摘される。コルトライトニングおよびサンダラーは工場をスタンダードにはブルーおよびケースハードゥンで去った。在庫にはニッケルメッキがあったし、固定注文によって金および銀メッキも購入できた。初期のみ(大体1880~81年まで)バレルのマズル上に洋銀(注:銀の代用となる銅、亜鉛、ニッケルの合金)製フロントサイトが鎮座した銃が生じた。以後はスチール製である。Uwe Dorfleinのような専門家たちは、グリップの違いについて知っている。いわく、「一番最初は粗いチェッカリングのあるワンピースのローズウッドグリップだった。直後に細かいチェッカリングのあるワンピースのローズウッドグリップと、ワンピースの(非常にレアな)グタペルカ(ハードラバー様の)製が登場した。1880年以後はツーピースのグタペルカグリップがスタンダードとして使われた。」 コルトは当然デラックス品にはスムーズまたは彫刻を施した象牙またはパール製グリップも装着した。

刻印
 刻印に取り組む人は、この主題に本格的に深く参入しなくてはならない。
●例えばフレームの刻印。全てのライトニングとサンダラーには3行のパテント日付表示がある。ただし、1892年以後に製造されたものにのみ、その後ろに円の中に刻印された会社のエンブレム、「ランパンコルト」がある。つまり棒立ちになった子馬である。
●例えば口径の表示。一行の「COLT D.A. 41」または「COLT D.A. 38」という形でバレル左に目立つように示されている。Uwe Dorfleinいわく、「このマーキングは1877年からおよそ1889~91年ごろまではエッチングで行われ、その後は刻印として行われた。この移行ははっきりしておらず、シリアルナンバー領域72000~80000の間に実施された。」 
●そして例えばバレルのアドレス。コルト工場はバレル上部に常に2行の会社の住所、「COLT‘S Pt. F.A. MFG.Co./HARTFORD.CT.U.S.A.」を刻印していた。ただしその長さはバレルの長さによって決まっていた。3.5インチ以上では刻印の長さは1と1/16インチとなり、これに対しより短いものは3/4インチしかなかった。

 ちなみにこの短い刻印はイギリス向けに供給された銃身長3.5インチ未満のコルトM1877にも見られる。長い銃はアドレスの追加「DEPOT 14.PALL MALL LONDON」を持つ。

 こうした多様性を見れば、コレクターが時として一生涯このリボルバーに取り組むのも驚くには当たらない。これは例えばジョージア出身の薬剤師であるBo Harperにあてはまる。彼は150挺以上のライトニングおよびサンダラーを、それに属する紙箱ごとコレクションした。そしてそれでもなお1あるいはそれ以上の銃が欠けていた注:バリエーションのうち集めきれていないものがある、ということのようです)

金の話をしよう
 その忠実なファンにもかかわらず、コレクターズアイテムとしてのM1877は決して本当にはコルトシングルアクションバリエーションの影から脱することができない。このことはスタンダードバージョンの価格を一瞥すれば示される。例えば最高度に維持された初期のM1873シングルアクションアーミー、別名ピースメーカーは45000~60000ドルもする。完全にサビを磨き落とした、そしてガタの来たピースメーカーでさえしばしば2000ユーロを越える。これに対し、スタンダードなコルトM1877の事情を見れば、状況はずっといい結果になる(頑住吉注:安いということです)。すなわち、最高度に維持された銃でも2500~4000ユーロですでに買えるし、明らかに使い古された銃なら当然さらに安くなる(頑住吉注:2005年5月4日のレートで換算すると、「45000~60000ドル」は約34960~46614ユーロとなりました)。

コルトの失敗作?
 この価格の差には明白な理由がある。コルトM1877には技術的に「誤った開発」というイメージが伴っている。事実、多くの銃にはメカニズムに故障や作動不良がある。作動という点では、コルトのほぼ全てのシングルアクションリボルバーには、かろうじて入手できるオリジナルも含めてほとんど問題はない。非常に多くが最後に製造されたM1877系よりも50年も古いものであるにもかかわらずである。それゆえ、ライトニングのレプリカも存在しない。ただしウベルティのような会社は、すでにショートバレルのピースメーカーコピーに、M1877に特徴的なバードヘッドグリップをつけている。これは19世紀には存在しなかったものである。

 もっとも、M1877のメカニズムはしばしば主張されるほど不安定であるとは言えない。さもなければコルトはこのリボルバーをただちにマーケットから引っ込めていただろう。そうする代わりにこの銃の生産は1909年まで続き、166849挺という相当な数が世に出た。シングルアクションアーミーは匹敵する期間に261000挺がコルトの工場を離れた。

 その上、M1877の開発された時代にはこの作動原理はもはや新しいものではなかった。コルトの専門家R.L.Wilsonが詳述しているように、当時DAシステムはとっくに皆に知られた共有財産だった。このことは、M1877を担当したコルトの技術者William MasonがこのDAメカニズムをめぐってパテントを取得していないという事実が証明している。この銃に刻印されているパテント日付は主としてローディングゲートのフタとエジェクターをめぐる技術的特徴に関係するものである。アメリカン エキスプレス カンパニーが1200挺以上のM1877リボルバーを入手したことも、この銃の品質を物語っている。コレクターはこれをグリップ後部の刻印「AM.EX.CO.」で見分けている(注:ちょっと驚いて調べてみたんですが、公式サイトによるとこの会社は1850年にニューヨークで創業したそうです。多額の現金を扱う会社だから自衛のための即応性の高いハンドガンが多数必要だったということでしょうか)。その上、この銃は多数がメキシコの役所に送られた。バレルの文字列「POLICIA DEL DISTRITO FEDERAL MINISTERIO DE GOBERNACION」が示すようにである。当然、このダブルアクションコルトM1877はしばしば稲妻を走らせ、雷鳴を轟かせもした(:ライトニング、サンダラーという名称にひっかけた表現ですが、要するに実戦で頻繁に使用もされた、したがって故障ばかりでどうにもならなかったということはないはずだ、ということです)。

ワイルドウェストにて
 開拓民の民話の中で「クイーン オブ ザ バンディッツ」として知られるMyra Belle Starrは1880年代の初頭に、彼の銃とともに1枚の写真に撮られているが、彼女は3.5インチ銃身つきコルトライトニングも持って写っている(注:私はこの人知らなかったんですが、検索してみると非常に有名な人みたいです。不鮮明でよく分かりませんがここの写真のことでしょうか。 http://www.panhistoria.com/Stacks/Novels/Character_Homes/home.php?CharID=5361)。

 ほぼ同じ頃ニューメキシコで1人の若者が死んだ。彼の名はHenry McCarty、またの名をWilliam Bonney、またの名をKid Antrim、またの名をビリー ザ キッドと言った。保安官パトリック フロイド 「パット」 ギャレットがニューメキシコのLatinosで「El Chivato」として知られるこの追いはぎをFort Summerで射殺したとき、キッドの手には.41口径のサンダラーが見つかった。ちなみに、ギャレットも1挺のM1877を所有していた。キッドの死からまる20年後、彼は租税徴収者としてエルパソに赴いた。この機会にニューメキシコ出身の友人が彼に、純銀製グリップが付属した、エングレーブ、金メッキされた銃をプレゼントしたのである。

 ビリー ザ キッド自身が持っていたコルトサンダラーも貴重なものになることになった。長年カンサス州BerryvilleのSander‘sミュージアムには、1挺の3インチバレルを装備したエジェクターなしのM1877が収められていて、そのアイボリーグリップには「Billy」の名が彫刻されているのが見られた。この銃が本当にキッドの持ち物だったのかは、たぶんManituのみが知っている:この単語は辞書に載っていませんが、検索したところネイティブアメリカンの言葉で「神の住むところ」という意味のようです。普通ならドイツ人だってそんなの知らんだろうと思いますが、どうもこの言葉をタイトルにした映画がドイツで大ヒットしており、説明不要ということらしいです。要するに「神のみぞ知る」ということですね)。少なくとも、ビリー ザ キッドがコルト初のダブルアクションリボルバーを愛用していたことはハリウッドまで広まった。そして1988年、映画「Young Guns」で、映画用レンタル銃に特殊化した会社Stembridge Gun Rentalsの小道具係は、キッドを演じた俳優エミリオ エステべス用に多数のオリジナルコルトM1877を用意した。その中には1挺の6インチバレル、エジェクター、ハードラバーグリップの付属したサンダラーがあった。

 次に有名なコルト初のDAシリーズのファンは、Frederic Remingtonという。Desperado(注:響きはスペイン語っぽいですが、ドイツ語の辞書にも「無法者」という意味が載っていました)ではなく、1900年頃のアメリカで最も有名なカウボーイや騎兵をテーマとした画家である。レミントンは若い頃長期間にわたって西部で可能な限り全ての職業についた。そのとき彼はこの小型のコルトに対する愛好をも高め、多くの油絵やデッサンにおいて牧人やスカウトのホルスターに収めていた。そしてR.L.Wilsonが発見したように、彼は1895年3月にシリアルナンバー98951を持つ1挺のサンダラーを入手した(注:検索したところ、この人は1861年生まれ、1909年没ということです。M1877生産中止と同じ年にかなり若くして死んでます)。

 当時、「ピストル名士」の中の最大のM1877ファンの人生は終わりに傾いていた。これはワイルドウェストで最も戦慄すべき記録を樹立した人物、テキサス人John Wesley 「Wes」 Hardinのことである。ギャング史によれば彼の道は44の死体によって舗装されていた(注:変な言い回しですが、要するに生涯ガンファイトで44人殺したということでしょう)。「メキシコ人とインディアンは計算に入れていない」 1895年、背後から発射された1発の.45口径弾がこの大きなゲームを終わらせるまでに。このメソジスト説教者の息子はリッチにデコレーションされたリボルバーを好んだが、その中には1挺のM1877ライトニングもあった。弁護士として働いていたHardinは、彼の親類である「Killin Jim」として悪名高いJames Millerを裁判の際に弁護した後でこの.38口径リボルバーを手に入れた。Millerが敗訴したにもかかわらず。それでも彼はHardinに高価な時計と、エングレーブされ、パールグリップの付属したライトニングをプレゼントした。彼がほんの2、3ヵ月後に裁判の相手を散弾銃で射殺する前にである。

ガンマンのための3挺のコルト
 ただし、シリアルナンバー84304のついたHardinのこのライトニングは、彼の持つ1877系シリーズのうちの1挺のリボルバーにすぎなかった。彼はその上2挺のニッケルメッキされた.41口径サンダラーを持っていた。シリアルナンバーはそれぞれ68837、73728だった。前者はアイボリーグリップと4.5インチバレルつきで、後者は5インチバレル、パールグリップつきでエングレーブが施されていた。ちなみに前者はカリフォルニア州のGene Autry Western Heritage博物館に、同様にHardinが所持していたコルトピースメーカーとともに収容されている。もっとも、Hardinはこれらで長いこと楽しんだわけではない。このことは伝記作家Robert McNellisによってまる30年前に確認されている。すなわち、彼の調査によれば、コルトは1889年にこのエングレーブが施されたサンダラーを、14のいろいろなリボルバーとともに、テキサスのエルパソに所在する銃器商Ketelson&Digetauに送っている。ここからこの6連発銃はArthur R. Kline& Co.社に引き渡され、1895年にHardinに販売された(頑住吉注:約6年も売れなかったというわけでしょうね)。そしてこの翌月、エルパソのゲームサロンでダイス遊びをしていたとき、いかさまをされていると感じ、彼はこのサンダラーをさっと抜き、ポットから金を取った。直後にHardinは警察官William TenEyckに直面し、この銃は押収され、そして後にゲームサロンのオーナーに売却された(注:要するにこの銃は1ヶ月かそこらしかHardinの手元にはなかったということです)。

 だが、Wes HardinはこのDAコルトをいかがわしい場面のみに使用したわけではない。ワイルドウェストの専門家Phil Spangenbergerは、彼がこの銃を使って曲芸をすることを好んだということを突き止めた。彼はこのコルトを、グリップを下にしてズボンのポケットに突っ込み、バレルが上にのぞいて見えるようにした。彼は足を開いて立ち、マズルをつかんでこのリボルバーを引き抜き、空中で回転させ、グリップを受け止め、発射した。Hardinはこれで命中させることもできることを、何歩も離れたポーカーカードに穴を開けることで証明した。これにサインしてファンに差し出すために。

いつかこれを撃てるか?
 正常化したメカニズムと、妥当な試射を前提として、サンダラーまたはライトニングからいくらかの黒色火薬による稲妻を走らせることに反対はしない。しかしアメリカのウェスタン銃器の専門家、Mike Venturinoはこれに関し、この銃は「ヒールタイプ弾」を使った弾薬用に設計されているということを指摘している。すなわち、ひっこめられたかかと部によって薬莢に差し込まれており、一方その上にある弾頭部の直径は、たいてい薬莢の口より大きい結果になるということだ。それに対し、今日の弾丸の場合は外径は常に薬莢のそれより小さい注:要するにこういうことです。

左がライトニングの弾薬で、右が通常の弾薬です)。Venturinoいわく、「.38口径コルトの額面上のライフリングの山部の直径は.357インチ、.41口径コルトのそれは.403インチである」。今日.38口径弾薬用に普通である直径.358インチの弾丸は、ライトニングのバレル内によりどころを見つけない。というのは、このバレルは後部が大きく中空になった柔らかい鉛弾用だからである。すなわち、バレル内のガス圧によって広がり、弾丸の誘導を引き起こすようになっている(注:いまいち分かりにくいんですが、この銃の「額面上のライフリングの山部の直径」は.357で、現在普通に使われている.38口径弾は.358なのでギリギリライフリングにかむように思われるが、実はバレル内径は拡張する弾丸用に少し広くなっているのでかまない、ということでしょうか)。当然、祖先のスタイルで自分で鋳造した「ヒールタイプ弾」でも成功する。

 そしてアメリカの専門家たちのレポートを信じるなら、良好なM1877の射撃フィーリングを表現するための言葉は一言だそうである。すなわち、「Fun」。

トリガーをめぐって(囲み記事)
 サミュエル コルトは彼のリボルバーを常にシングルアクション原理でセッティングした。だからトリガーは1つだけの使命を持った。すなわち、発射を引き起こすことである。一方シリンダーは親指がハンマーを起こしたときに回転した。こうしたセパレートの動きのため、ドイツ語圏の専門家たちはシングルアクションリボルバーを「Hahnspanner」(と言う。これはシリンダーの回転からハンマーのコックを経て発射を引き起こすことまで全てを処理する。この原理は19世紀半ばには非常によく知られていた。アメリカのEthan Allen、ベルギーのA.Mariette(頑住吉注:アメリカ・イギリス系とベルギー・フランス系、ペッパーボックスの代表2機種を作った2人です)、イギリスのCharles LancasterとRobert Adams(注:後者は初期コルトリボルバーの強敵となり、イギリスでは勝利したアダムスリボルバーを作った人ですが、前者は知らなかったので検索してみました。こんなのを作った人らしいです。 http://www.horstheld.com/0-makers-L.htm )のような設計者たちはこれをペッパーボックスあるいは通常リボルバー用に使用した。アダムスは彼の銃に装備したこの発火機構を「セルフコッキング ロック」と言った。だが、コルトは1842年および1858年における多くの実験の後、セルフコッカーを却下した。彼はその理由をすでに1851年にロンドンで、技術者の団体「Institution of Civil Engineers」を前にした講演で解説していた。コルトによればハンマーコッカー注:セーフティコック)がなく、1発の発射を起こさせるためにはハンマーへの一撃で足りる。だが1855年、イギリスのFrederick Beaumont中尉がその両方の欠陥を、複数のレストを持つ安定したコックトリガーによって取り除いた。すなわち、この銃はコルト風に手動コックすることもできるようになり、この結果2つのトリガー方式の選択を提供した。これによりBeaumontはモダンなダブルアクションリボルバー発火方式の先駆者となり、後にベルギーのJules Chaineux、フランスのJean ChamelotおよびHenri-Gustave Delvigne、スイスのRudolf Schmidtによって改良された。


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 天才というものは、偉大な発明を成し遂げる一方自信過剰で他人の発明した優れたものを取り入れることを頑なに嫌う一面を持つことが往々にしてあるようです。他のアメリカの歴史的大発明家の例を挙げるなら、例えばエジソンが頑なに交流電流を危険なものとして嫌い、攻撃したこと、ライト兄弟がオリジナルな航空機の構造にこだわりすぎたため基本形以上の傑作をその後作ることができずに結局時代に取り残されたことなどの事実があります。同様に、現代リボルバーの基礎を築いたコルトの業績は実に偉大なものですが、人格や手法にやや問題があったのも事実のようです。

 コルトが初めてリボルバーを発売したのは1836年のことであり、一方「Visier」の記事でも例に挙げられているイーサン・アレンはその翌年にはダブルアクションメカのパテントを取得し、ダブルアクションペッパーボックス(多銃身回転式拳銃)を発売しています。コルトリボルバーは初期には非常に高価だったこともあって普及するのに時間を要しました。一方アレンのペッパーボックスは安価であることを最大の武器にして初期コルトリボルバーの最強のライバルとなり、少なくとも発売から10年以上にわたってコルトリボルバーよりはるかに有名で、人気があり、商業的に成功していました。したがってダブルアクション回転式拳銃自体はM1877発売のはるかに前から周知のものだったわけです。またイギリスではアダムスのダブルアクションパーカッションリボルバーがコルトとの競争に勝利したことが示すように、ヨーロッパではダブルアクションが主流でさえありました。コルトはアレンやアダムスとの激しい戦いの中でシングルアクションリボルバーに磨きをかけ、言うまでもなく後には高い評価を得ています。当時のコルトリボルバーと大筋同じ構造の銃器は現在でも生産され、実戦目的にではないものの多くの銃器愛好家に求められています。コルトが後の銃器発達史に与えた影響は明らかにアレンやアダムスのそれよりはるかに大きなものです。コルトの道は決して大きく間違ってはいませんでしたが、彼らへの敵対心からダブルアクションを必要以上に嫌った彼の態度は社のため、また銃器の進歩のためにプラスにはならなかったと考えられます。

 M1877は1876年、当時コルト社の設計スタッフの中心人物だったWilliam Masonが開発したもので、偉大な創業者コルトの「ともかくダブルアクションは止めておけ」という遺言は15年も社を縛り続けたことになります。この銃のダブルアクションメカは、現在では一部の低価格製品などに残存しているだけですが当時はむしろ主流だった、トリガーに可動パーツが付属し、これがハンマーを押し上げてコックするものでした。言うまでもありませんが現在ではトリガーがハンマーに付属した可動パーツを押し上げるメカが主流です。ちなみにアダムスリボルバーは前者であり、アレンのペッパーボックスはレイアウトは大きく異なるものの後者に近いものでした。「Visier」はM1877のメカが、「確かに問題があったものの言われるほどではない」、とする論拠の1つとして、「当時ダブルアクションはすでにプルーフされた存在だった」ことを挙げていますが、私はこれはおかしいと思います。M1877のメカニズム上の問題はダブルアクションメカニズムそのものにあるのではないと考えられるからです。

 M1877の他のリボルバーと最も異なる特徴は、シリンダーストップのデザインです。言うまでもなく通常のリボルバーにはシリンダー側面にノッチがあり、ここにシリンダーストップがはまってシリンダーを止めるようになっています。これは他ならぬコルトによるデザインであり、M1877以外の全てのコルトリボルバーはこうなっているはずです。コルト以外でもシリンダー側面にノッチを持たないリボルバーはM1877以外にはウェブリー・フォースベリーやモーゼル1878などジグザグミゾによってシリンダーを回転させ、同じミゾによって停止もさせるリボルバーくらいでしょう。ところがWilliam Masonは何を考えたかノッチをシリンダー後部に設けました。

 シリンダー後部にノッチを設けること自体は新しい発想ではありません。リボルバーでこそ珍しいものの、アレンのペッパーボックスがそういう構造だったように、これはペッパーボックスにおいては珍しい方法ではなく、信頼性にも大きな問題はなかったようです。ただし、これをメタリックカートリッジ式リボルバーに応用した場合、大きな問題が生じました。

 M1877のシリンダーは、リム部がシリンダー内に収まるカウンターボアードにはなっていません。シリンダーストップはリムの厚み分大きく前進しないとシリンダーに到達できないだけでなく、前進が早すぎるとシリンダーストップがリムに当たってシリンダーを止めてしまい、また前の弾薬のリムがある間は前進できず、過ぎたら間髪いれずに前進しないとシリンダーを止めそこなうというものになってしまいました。



 単純化してイラストにするとこんな感じです。青がシリンダー、黄色がリム、空色がフレーム、赤がシリンダーストップです。どう考えてもやや無理のある方法という気がします。現存する多くの銃が作動不良を抱えているというのはここに原因があると考えられます。「COLT FIREARMS」(James E.Serven著・アメリカ)という参考資料は、この銃に関するコメントとして、「(このシステムは)シリンダー回転の自由度がより高く、ハンドの耐久性は進歩していると主張した。これはこの有利さを持つ唯一のリボルバーであることを意味した。しかしこのリボルバーはメカニズム的に理想からは程遠かった。このコルトのうち1挺を手にした人は誰でも、メカニズムが複雑すぎ、調整がデリケートすぎると公言するだろう。」旨記述しています。また、「The Gun Digest Book of FIREARMS ASSEMBLY/DISASSEMBLY PartⅡ:Revolvers 2nd Edition」(J.B.Wood著・アメリカ)という参考資料には、「このリボルバーは、おそらくかつて案出された中で最悪のダブルアクションリボルバーであるといういかがわしい勲章を与えられている。正しく作動している『ライトニング』は稀な例外である」としています。当時はともかく、長い年月が経過したM1877はまともに動かないものが多いということです。このシステムがダメだったことは、この1作のみで放棄されたことが証明していると言えるでしょう。

 前掲の「COLT FIREARMS」によれば、この銃は1877年1月1日に初めてコルト社による広告が行われたとされ、「Visier」の記述とも合わせ、1876年のうちには開発が終了し、生産も始まっていたと考えられます。「Visier」の記述のように、生産された総数は166849挺にもなり、これは同時期に生産されたSAAの6割以上の数ですから、意外なほど両者の数には差がなかったことになります。まともに動かないものが多く(今動いていてもいつ動かなくなるか不安)、イメージが悪い上、なまじ多数が生産されたため、コレクターズアイテムとしての価値が低いわけです。メカニズムに問題があるからこそ実銃レプリカもかつて生産されたことがない、

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 これは製品に付属した内容ほぼそのままですが、その後判明したことなどを追加しておきます。

 まず、このシステムを使用していたのはM1877だけとしましたが、M1878も基本的に同一のメカだったようです。ただ、この銃に関しては詳しい史料が少なく、不明の点が多く残っています。ちなみに不充分ながら「知識の断片」コーナーの「コルトM1878シェリフスモデル」の項目にも情報があります。

 私は当時コルトによる後のリボルバーに与えた影響をやや過大評価していたようです。「知識の断片」コーナーの「Faustfeuerwaffen」のうち「ハンマーに関節結合されたダブルアクションシアを持つダブルアクション銃の発達」の項目にあるように、現代リボルバーのトリガーメカニズムのルーツは明らかにベルギー製ピンファイアリボルバーにあり、これはM1877よりはるかに古いものです。M1877のメカは他社に遅れてダブルアクションリボルバーを世に出すにあたって独自色を盛り込んだが失敗し、放棄されただけのものととらえるべきもののようです。

  


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2014年04月22日

ワイアット・アープ

ワイアット・ベリー・スタップ・アープ(Wyatt Berry Stapp Earp、1848年3月19日 - 1929年1月13日)は、アメリカ西部開拓時代の保安官。




目次
[非表示] 1 生涯
2 OK牧場の決闘
3 ワイアット・アープを主人公とした作品 3.1 映画
3.2 TV映画

4 関連項目


生涯[編集]

イリノイ州生まれ。20歳のころバッファロー狩りで生計を立てガンマンとして有名になった。1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年にはカンザス州ウィチタの保安官事務所で働いていたが、1876年4月、仲間と口論して解雇された。1878年、やはりカンザス州のフォード郡ドッジシティで新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安官チャールズ・バセットの下で保安官助手に任命された。

1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、アリゾナ州のトゥームストーンに移り住み農業のかたわら賭博場の胴元、売春宿の経営者になった。3か月後、兄のヴァージル・アープがトゥームストーンの保安官に就任した。

1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達と、「OK牧場の決闘」と呼ばれる事件を起こす。(詳細については、下記を参照のこと)

晩年ロサンゼルスに定住し西部開拓時代の伝説的な生き証人となり、親交を持った映画監督のジョン・フォードの西部劇製作に影響を与えた。

1929年1月13日、ロサンゼルスにて膀胱炎で死去。80歳。

ワイアット・アープは、映画などでバントライン・スペシャルと呼ばれる拳銃(作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、コルト・シングル・アクション・アーミーの銃身が非常に長い特注モデル)を使っている場合がある。しかしこれは伝説で、本当に使っていたかどうかは定かではない。

OK牧場の決闘[編集]

1881年、アープ兄弟は、クラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達(牛泥棒などの不法行為をもっぱらとしていた)と対立を深めていた。

10月26日、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズが銃を所持しているので、武装解除するべき」との市民の忠告を受け、バージルは、ワイアット、モーガン、友人のドク・ホリデイと共に彼らを武装解除するべく出かけたが、撃ち合いとなり、カウボーイ組5名中3名を射殺した。世に言うOK牧場の決闘である。

決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。この判決を受け、カウボーイズはバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは命を失う。その後、ワイアットはモーガン殺害の実行犯と見られたフランク・スティルウェルをツーソン駅構内で殺害したと言われている。この事件によってカウボーイズ派の郡保安官ジョン・ビアンにより逮捕状が出され、ワイアットはカウボーイズの追及を受けることとなる。一方ワイアットも連邦保安官助手の資格を得ており、保安官同士が互いを付け狙いあうという異常事態となった。

結果として、カウボーイズのリーダー格のカーリー・ビル、リンゴ・キッドが殺害され(アープ組が殺害したと見なされているが事実は不明)、ワイアット、ドク・ホリデイはコロラドに逃走して一連の事件は終息する。

ワイアット・アープを主人公とした作品[編集]

映画[編集]
荒野の決闘(ジョン・フォード監督、1946年、演:ヘンリー・フォンダ)
OK牧場の決斗(ジョン・スタージェス監督、1957年、演:バート・ランカスター)
シャイアン(ジョン・フォード監督、1964年、演:ジェームズ・スチュアート)
ワイアット・アープ(トゥリオ・デミケリ監督、1964年、演:ガイ・マディソン)
墓石と決闘(ジョン・スタージェス監督、1967年、演:ジェームズ・ガーナー)
ドク・ホリディ(フランク・ペリー監督、1971年、演:ハリス・ユーリン)
キャデラック・カウボーイ (ブレイク・エドワーズ監督、1988年、演:ジェームズ・ガーナー)
トゥームストーン(ジョージ・P・コスマトス監督、1993年、演:カート・ラッセル)
ワイアット・アープ(ローレンス・カスダン監督、1994年、演:ケヴィン・コスナー)

TV映画[編集]
保安官ワイアット・アープ(ウィリアム・A・グレアム監督、1994年、演:ヒュー・オブライエン)
  


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