テキサスビルのシユーテイングブログ
カウボーイとリボルバーとオートマとの葉巻のぶろぐです
2014年04月09日
ラスト・シューティスト
ラスト・シューティスト
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ラスト・シューティスト
The Shootist
監督
ドン・シーゲル
脚本
マイルズ・フッド・スワザウト
スコット・D・ヘイル
原作
グレンドン・スワザウト
製作
M・J・フランコヴィッチ
ウィリアム・セルフ
音楽
エルマー・バーンスタイン
撮影
ブルース・サーティース
編集
ダグラス・スチュワート
配給
パラマウント映画
東宝東和
公開
1976年8月11日
1979年7月7日
上映時間
99分
製作国
アメリカ合衆国
言語
英語
テンプレートを表示
『ラスト・シューティスト』(原題: The Shootist)は、1976年製作の、ジョン・ウェイン主演の西部劇映画である。1975年に発表された同名の小説の映画化で、ローレン・バコール、ロン・ハワードそしてジェームズ・ステュアートが共演している。師であるジョン・フォード亡き後も、一人で奮闘したジョン・ウェインの遺作となった作品である。
目次
[非表示] 1 あらすじ
2 キャスト
3 スタッフ
4 エピソード
5 脚注
6 外部リンク
あらすじ[編集]
1901年1月22日、かつての射撃の名手、ブックスがネバダ州のカーソンシティに戻ってきた。信頼のおける医者のホステトラーから、自分の病気について聞いたところ、ガンで病状が悪化していることを知らされる。未亡人のロジャース夫人が経営する、下宿屋の部屋を借りたブックスを、保安官のティビドーが訪れ、町を立ち退くよう命じるが、ブックスが余命いくばくもないことを知る。
ブックスがカーソンシティに滞在していることが知れ渡り、かつての仇敵たち、あるいは、これでひと儲けを目論む者たちが集まって来る。新聞記者がやって来て、彼のガンマン人生を美化した記事を書こうとしたり、この大物を倒して名を挙げようとする者もおり、2人の男が寝込みを襲おうとしたため、ブックスはやむを得ず2人を撃つ。ロジャース夫人の息子、ギロムはブックスに感銘をうけるものの、この件で、泊まり客に出て行かれた夫人は激しく怒る。ブックスの昔の女、セレプタも部屋を訪れて、結婚を申し込むが、結局は知名度利用であることに気づく。
ブックスは、葬儀屋のベッカムらと話をつけたあと、ロジャース夫人に、自分に残された時間がわずかであることを告げ、ギロムに頼んで3人の男、自分を弟の敵と狙うスイーニー、賭博を生業とするプルフォード、そして町のならず者コッブに挑戦状を突きつけて、自分の58歳の誕生日の午前中に、メトロポールの酒場での果たし合いを告げる。朝早い時間、4人と、バーテンダーしかいない酒場で始まった撃ち合いがやんだ時、入ってきたギロムは、あちこちに傷を負いながらも、立っているのはブックス唯一人であるのを発見した。その時バーテンダーが、背後からブックスを撃った。ギロムはブックスの銃を取り、バーテンダーを殺した。そしてすぐ銃を放り投げた。ブックスの顔に満足げな表情が見て取れた。
キャスト[編集]
役名
俳優
日本語吹き替え
フジテレビ版
テレビ朝日版
J・B・ブックス
ジョン・ウェイン
小林昭二
納谷悟朗
ロジャース夫人
ローレン・バコール
馬渕晴子
小沢寿美恵
ギロム
ロン・ハワード
水島裕
村山明
ホステトラー医師
ジェームズ・ステュアート
浦野光
浦野光
スイーニー
リチャード・ブーン
郷里大輔
田中康郎
プルフォード
ヒュー・オブライエン
池田勝
小林清志
ティビドー保安官
ハリー・モーガン
永井一郎
大木民夫
ベッカム
ジョン・キャラダイン
北村弘一
村越伊知郎
セレプタ
シェリー・ノース
榊原良子
モーゼス
スキャットマン・クローザース
龍田直樹
藤本譲
コッブ
ビル・マッキーニー
玄田哲章
仲木隆司
新聞記者ドブキンス
リック・レンズ
千田光男
石丸博也
フジテレビ版 - 初放送1982年6月12日 『ゴールデン洋画劇場』
テレビ朝日版 - 初放送1987年6月14日 『日曜洋画劇場』
スタッフ[編集]
監督:ドン・シーゲル
製作:M・J・フランコヴィッチ、ウィリアム・セルフ
脚本:マイルズ・フッド・スワザウト、スコット・D・ヘイル
原作:グレンドン・スウォースアウト
撮影:ブルース・サーティース
美術:ロバート・F・ボイル
音楽:エルマー・バーンスタイン
衣装(デザイン):モス・メーブリー
字幕:清水俊二
[1]
エピソード[編集]
冒頭で、『赤い河』、『ホンドー』、『リオ・ブラボー』、『エル・ドラド』というウェイン主演の映画のシーンが挿入されている。
意外な話だが、この映画の製作時点では、ウェインのガンは完治していた。ガンが再発したのは、この映画が製作されて3年たった1979年の1月12日のことである。
ネバダ州のカーソンシティでロケが行われた時、ロジャース夫人の宿となった建物は、ネバダ州知事の邸宅から3件しか離れていなかった。
ロケ地がエルパソからカーソンシティに変更になった時、ウェインは愛馬ドラーをキャストに加えて、脚本を書き直させた。また、演技も手直しをさせた。ブックスが背後からプルフォードを撃ち、しかる後に、ギロムがブックスを撃つという設定であったのだが、ウェインは「自分の映画人生の中で、ひとを背後から撃ったことは一度もない。変えてほしい。」と言い、また、若いギロムに人殺しをさせるのは忍びないとして、最後にギロムが銃を捨てて、ガンマンの道を諦めるという設定にした。
ウェインは配役にも責任を持った。ローレン・バコール、ジェームズ・ステュアート、リチャード・ブーン、そしてジョン・キャラダインの出演は、彼の意向によるものである。特にバコールは、20年ほど前に夫であるハンフリー・ボガートを癌で亡くしている。
映画に登場するドラーは、1969年、2歳の時に『勇気ある追跡』に出演し、以来10年間、ウェインの愛馬だった。この栗毛のアメリカン・クォーターホース(短距離用の競走馬)には、自分以外の人間が乗ることを禁じていたが、ウェインの死後、『探偵ハート&ハート』の中で、ロバート・ワグナーが乗ったことがある[2]。
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ラスト・シューティスト
The Shootist
監督
ドン・シーゲル
脚本
マイルズ・フッド・スワザウト
スコット・D・ヘイル
原作
グレンドン・スワザウト
製作
M・J・フランコヴィッチ
ウィリアム・セルフ
音楽
エルマー・バーンスタイン
撮影
ブルース・サーティース
編集
ダグラス・スチュワート
配給
パラマウント映画
東宝東和
公開
1976年8月11日
1979年7月7日
上映時間
99分
製作国
アメリカ合衆国
言語
英語
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『ラスト・シューティスト』(原題: The Shootist)は、1976年製作の、ジョン・ウェイン主演の西部劇映画である。1975年に発表された同名の小説の映画化で、ローレン・バコール、ロン・ハワードそしてジェームズ・ステュアートが共演している。師であるジョン・フォード亡き後も、一人で奮闘したジョン・ウェインの遺作となった作品である。
目次
[非表示] 1 あらすじ
2 キャスト
3 スタッフ
4 エピソード
5 脚注
6 外部リンク
あらすじ[編集]
1901年1月22日、かつての射撃の名手、ブックスがネバダ州のカーソンシティに戻ってきた。信頼のおける医者のホステトラーから、自分の病気について聞いたところ、ガンで病状が悪化していることを知らされる。未亡人のロジャース夫人が経営する、下宿屋の部屋を借りたブックスを、保安官のティビドーが訪れ、町を立ち退くよう命じるが、ブックスが余命いくばくもないことを知る。
ブックスがカーソンシティに滞在していることが知れ渡り、かつての仇敵たち、あるいは、これでひと儲けを目論む者たちが集まって来る。新聞記者がやって来て、彼のガンマン人生を美化した記事を書こうとしたり、この大物を倒して名を挙げようとする者もおり、2人の男が寝込みを襲おうとしたため、ブックスはやむを得ず2人を撃つ。ロジャース夫人の息子、ギロムはブックスに感銘をうけるものの、この件で、泊まり客に出て行かれた夫人は激しく怒る。ブックスの昔の女、セレプタも部屋を訪れて、結婚を申し込むが、結局は知名度利用であることに気づく。
ブックスは、葬儀屋のベッカムらと話をつけたあと、ロジャース夫人に、自分に残された時間がわずかであることを告げ、ギロムに頼んで3人の男、自分を弟の敵と狙うスイーニー、賭博を生業とするプルフォード、そして町のならず者コッブに挑戦状を突きつけて、自分の58歳の誕生日の午前中に、メトロポールの酒場での果たし合いを告げる。朝早い時間、4人と、バーテンダーしかいない酒場で始まった撃ち合いがやんだ時、入ってきたギロムは、あちこちに傷を負いながらも、立っているのはブックス唯一人であるのを発見した。その時バーテンダーが、背後からブックスを撃った。ギロムはブックスの銃を取り、バーテンダーを殺した。そしてすぐ銃を放り投げた。ブックスの顔に満足げな表情が見て取れた。
キャスト[編集]
役名
俳優
日本語吹き替え
フジテレビ版
テレビ朝日版
J・B・ブックス
ジョン・ウェイン
小林昭二
納谷悟朗
ロジャース夫人
ローレン・バコール
馬渕晴子
小沢寿美恵
ギロム
ロン・ハワード
水島裕
村山明
ホステトラー医師
ジェームズ・ステュアート
浦野光
浦野光
スイーニー
リチャード・ブーン
郷里大輔
田中康郎
プルフォード
ヒュー・オブライエン
池田勝
小林清志
ティビドー保安官
ハリー・モーガン
永井一郎
大木民夫
ベッカム
ジョン・キャラダイン
北村弘一
村越伊知郎
セレプタ
シェリー・ノース
榊原良子
モーゼス
スキャットマン・クローザース
龍田直樹
藤本譲
コッブ
ビル・マッキーニー
玄田哲章
仲木隆司
新聞記者ドブキンス
リック・レンズ
千田光男
石丸博也
フジテレビ版 - 初放送1982年6月12日 『ゴールデン洋画劇場』
テレビ朝日版 - 初放送1987年6月14日 『日曜洋画劇場』
スタッフ[編集]
監督:ドン・シーゲル
製作:M・J・フランコヴィッチ、ウィリアム・セルフ
脚本:マイルズ・フッド・スワザウト、スコット・D・ヘイル
原作:グレンドン・スウォースアウト
撮影:ブルース・サーティース
美術:ロバート・F・ボイル
音楽:エルマー・バーンスタイン
衣装(デザイン):モス・メーブリー
字幕:清水俊二
[1]
エピソード[編集]
冒頭で、『赤い河』、『ホンドー』、『リオ・ブラボー』、『エル・ドラド』というウェイン主演の映画のシーンが挿入されている。
意外な話だが、この映画の製作時点では、ウェインのガンは完治していた。ガンが再発したのは、この映画が製作されて3年たった1979年の1月12日のことである。
ネバダ州のカーソンシティでロケが行われた時、ロジャース夫人の宿となった建物は、ネバダ州知事の邸宅から3件しか離れていなかった。
ロケ地がエルパソからカーソンシティに変更になった時、ウェインは愛馬ドラーをキャストに加えて、脚本を書き直させた。また、演技も手直しをさせた。ブックスが背後からプルフォードを撃ち、しかる後に、ギロムがブックスを撃つという設定であったのだが、ウェインは「自分の映画人生の中で、ひとを背後から撃ったことは一度もない。変えてほしい。」と言い、また、若いギロムに人殺しをさせるのは忍びないとして、最後にギロムが銃を捨てて、ガンマンの道を諦めるという設定にした。
ウェインは配役にも責任を持った。ローレン・バコール、ジェームズ・ステュアート、リチャード・ブーン、そしてジョン・キャラダインの出演は、彼の意向によるものである。特にバコールは、20年ほど前に夫であるハンフリー・ボガートを癌で亡くしている。
映画に登場するドラーは、1969年、2歳の時に『勇気ある追跡』に出演し、以来10年間、ウェインの愛馬だった。この栗毛のアメリカン・クォーターホース(短距離用の競走馬)には、自分以外の人間が乗ることを禁じていたが、ウェインの死後、『探偵ハート&ハート』の中で、ロバート・ワグナーが乗ったことがある[2]。

2014年04月09日
トゥームストーン
トゥームストーン
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この項目では、アメリカ合衆国の都市について記述しています。
全盛期のトゥームストーン。1881年
トゥームストーン(英: Tombstone)は、アメリカ合衆国アリゾナ州南東部に位置する都市。かつては銀の鉱山町として栄え、その人口はサンフランシスコをしのいだ。しかし銀鉱が掘り尽くされると町は急速に衰え、2006年の推計では人口1,569人にまで減少した。現在では町全体が国の史跡に指定され、西部開拓時代の辺境の町の町並みを残す「生きた博物館」として観光客を集めている。日本では、ツームストーンとも表記される。
目次
[非表示] 1 歴史 1.1 繁栄
1.2 凋落と観光化
2 地理
3 人口動勢
4 外部リンク
歴史[編集]
繁栄[編集]
エド・シーフェリン。1880年、トゥームストーンにて
1877年夏、エド・シーフェリンはアリゾナ準州南東部、サンペドロ川(San Pedro River)東岸の丘陵地帯を探索していた時、グース台地(Goose Flats)と呼ばれる高台に豊富な銀の鉱脈を見つけた。トゥームストーンという名はシーフェリンがこの地の銀鉱の採掘権を得たとき、この地の過酷な環境を揶揄してつけられたものであった。シーフェリンは石を集めていたとき、部下の兵士に、水のない丘陵地帯で、しかもアパッチ族による攻撃まで受けるこの地で見つける石は彼の墓石(トゥームストーン)になるであろうと言ったのである。
1879年にトゥームストーンは正式な町になった。この町は銀の鉱山町として急速に発展を遂げ、翌々年の1881年には人口1,000人に達し、市に昇格した。市に昇格すると、今度は1年経たないうちに人口5,000-15,000人にまで増え、新しく成立したコチセ郡(Cochise County)の郡庁所在地になった。市には冷蔵施設ができ、アイスクリーム店やアイススケートリンクまでもができた。水道施設が整えられ、電報や電話も開通した。コーンウォールやヨーロッパ出身の資産家・実業家たちはこの地に移民として流入してきた。中国系移民によってサービス業も発達した。
しかし、荒野の中に突如として形成されたトゥームストーンの町は良いことずくめではなかった。鉄道がなかったため、発展した町の中心部とは対照的に、周囲には荒涼とした、人気のない砂漠が広がっていた。そうした砂漠を活動範囲とするギャングもいて、治安はあまり良いとは言えなかった。ギャングたちはトゥームストーンにやってきては町を荒らし、北部の実業家や移民の鉱夫たちを殺したりもした。
凋落と観光化[編集]
旧コカイズ郡裁判所の処刑場の絞首台
繁栄は長くは続かなかった。もともと砂漠地帯で水が不足していた上、爆発的な人口増加によって突貫工事で建てられた木造の建物が多かったトゥームストーンは、1881年と1882年5月の2度にわたって大火に見まわれた。特に2度目の大火は、トゥームストーンの繁栄の歴史に終止符を打ったと言っても過言ではないものであった。1880年代中盤に入ると、銀鉱は掘り尽くされ、坑内は地下水であふれるようになった。
以後、トゥームストーンは凋落への道をたどり、ゴーストタウンと化した。1929年には南東約45kmに位置し、銅の露天掘りで人口が増えたビズビーに郡庁が移った。しかし、旧コカイズ郡裁判所と隣接する処刑場は博物館として残っている。
ブート・ヒル墓地(Boot Hill Graveyard)は、トゥームストーンが繁栄していた時期に暴力、または病気で亡くなった人たちが眠る墓地である。この墓地はトゥームストーンでリンチにあった、もしくは死刑を受けた者(人違いで死刑になった者もいるとの解説が墓地内にある)の行き先でもあり、死者が履いていたブーツが墓碑(簡素な木製のもの)に掛けられたことから、この名が付いた。現在、墓碑は木を模した金属製に置き換えられているが、当時の雰囲気を充分に味わうことができる。この歴史的な墓場の入り口には土産物屋があり、その店内から入場料を払い入ることになる。
1881年にトゥームストーンで起きた暴力事件の代表とも言えるOK牧場の決闘が起きた場所も史跡として残っている。同史跡は見学料を課しているが、市のメインストリートであるフレモント通り(州道80号線)からその大部分を見ることができる。
トゥームストーンはまた、世界最大のバラの茂みが植えられている地でもある。このバラの茂みはギネスブックにも登録されている。1885年に植えられたこのレディー・バンクシア種(Lady Banksia)のバラは、1年を通じて晴天に恵まれたこの地の気候の影響もあって成長状態が良く、宿屋の屋根上約743m²をカバーし、12本の幹を有している。[1]
現在のダウンタウン・トゥームストーン
こういった歴史的なものが数多く存在するトゥームストーンは、1961年に「1870年代から1880年代にかけての辺境の町の町並みが最もよく保存された例」として国の歴史地区に指定された。現在のトゥームストーンの主産業はこの歴史地区を生かした観光である。2005年7月に発表されたCNNの記事によると、トゥームストーンを訪れる観光客の数は年間450,000人に上る。現在の常住人口が約1,500人であるので、人口1人あたり300人の観光客が訪れている計算になる。しかし市内の酒場が24時間営業し、売春宿が立ち並んだ全盛期とは異なり、現在のトゥームストーンは落ち着いたコミュニティで、夜遅くまで開いている店はほとんどない。
しかし過度な観光化は、トゥームストーンの歴史的価値が危機にさらすことでもあった。2004年、アメリカ国立公園局(NPS)はトゥームストーンの歴史地区が「危機状態」にあると宣言し、地元コミュニティに対し、適切なスチュワードシップ制による保全を求めた。国立公園局が不適切と指摘した点には次のようなものがある。
新しく建てられた建物に対し「歴史的」な日付の記載がなされている。
新しく建てられた建物と歴史的建造物との区別が困難である。
歴史的建造物に対し、不適切な建材を用いている。
歴史的建造物を修復するのではなく、新たに建て替えている。
憶測による、十分な根拠のない建材で建て替えられ、建物の歴史的側面が失われている。
既存の歴史的建造物を大幅に増築したり、敷地内に新しい建物を建てたりしている。
歴史的な看板を囲む点滅灯の使用など、看板にイルミネーションを用いている。
トゥームストーンに存在しなかったはずの建築様式で建物が建てられている。
また、市内の道が舗装されたことも、歴史的な町並みの保存に反するものであるとされた。
これらの問題点の対策として、2006年1月現在、トゥームストーン修復委員会(Tombstone Restoration Committee)は市内の歴史的建造物の修復に尽力している。市内の通りに施された舗装は剥がされ、再び「歴史的」な埃道に戻った。
地理[編集]
トゥームストーンの位置
トゥームストーンは北緯31度42分57秒西経110度3分53秒(31.715940, -110.064827)に位置している。ツーソンの東南東約110km、フェニックスの南東約300kmに位置している。
アメリカ合衆国統計局によると、トゥームストーン市は総面積11.1km²(4.3mi²)である。市の全域が陸地であり、水域はない。
ダウンタウンは西北西-東南東方向に約2km、北北東-南南西方向に約800mの範囲内に収まっている。ダウンタウンの道路は整然と区画されている。アリゾナ州道80号線がダウンタウンを通っており、フレモント通り(Fremont Street)として市のメインストリートになっている。西部開拓時代の町並み保存の一環として、アレン通り(Allen Street)など一部のダウンタウンの通りは舗装が剥がされている。
トゥームストーンの気候は温暖な冬と暑い夏、そして1年を通じて乾燥した気候に特徴付けられる。夏の平均気温は摂氏27度ほどだが、日中は摂氏35度に達する。ただし湿度が低いため、夜になると摂氏20度程度まで下がって涼しくなり、日本のような熱帯夜にはならない。冬でも平均気温は摂氏10度程度、夜でも氷点下に下がることは滅多にない。降水量は1年を通じて月間0-25mmほどであるが、7月・8月は短い雨季で、月間75mm程度の降水がある。年間降水量は200-250mm程度である。ケッペンの気候区分では砂漠気候(BW)に属する。
人口動勢[編集]
以下は2000年の国勢調査における人口統計データである。
基礎データ 人口: 1,504人
世帯数: 694世帯
家族数: 419家族
人口密度: 135.0人/km²(349.8人/mi²)
住居数: 839軒
住居密度: 75.3軒/km²(195.1軒/mi²)
人種別人口構成 白人: 87.37 %
黒人: 0.60 %
インディアン: 1.00 %
アジア人: 0.33 %
その他の人種: 8.18 %
混血: 2.53 %
ヒスパニック・ラテン系: 24.14 %
年齢別人口構成 18歳未満: 19.3 %
18-24歳: 4.9 %
25-44歳: 19.9 %
45-64歳: 32.5 %
65歳以上: 23.3 %
年齢の中央値: 49歳
性比(女性100人あたり男性の人口) 総人口: 94.3
18歳以上: 91.0
世帯と家族(対世帯数) 18歳未満の子供がいる: 20.2 %
結婚・同居している夫婦: 47.6 %
未婚・離婚・死別女性が世帯主: 7.9 %
非家族世帯: 39.5 %
単身世帯: 32.9 %
65歳以上の老人1人暮らし: 15.3 %
平均構成人数 世帯: 2.17人
家族: 2.73人
収入と家計 収入の中央値 世帯: 26,571米ドル
家族: 33,750米ドル
性別 男性: 26,923米ドル
女性: 18,846米ドル
人口1人あたり収入: 15,447米ドル
貧困線以下 対人口: 17.4 %
対家族数: 13.0 %
18歳未満: 22.6 %
65歳以上: 13.1 %
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この項目では、アメリカ合衆国の都市について記述しています。
全盛期のトゥームストーン。1881年
トゥームストーン(英: Tombstone)は、アメリカ合衆国アリゾナ州南東部に位置する都市。かつては銀の鉱山町として栄え、その人口はサンフランシスコをしのいだ。しかし銀鉱が掘り尽くされると町は急速に衰え、2006年の推計では人口1,569人にまで減少した。現在では町全体が国の史跡に指定され、西部開拓時代の辺境の町の町並みを残す「生きた博物館」として観光客を集めている。日本では、ツームストーンとも表記される。
目次
[非表示] 1 歴史 1.1 繁栄
1.2 凋落と観光化
2 地理
3 人口動勢
4 外部リンク
歴史[編集]
繁栄[編集]
エド・シーフェリン。1880年、トゥームストーンにて
1877年夏、エド・シーフェリンはアリゾナ準州南東部、サンペドロ川(San Pedro River)東岸の丘陵地帯を探索していた時、グース台地(Goose Flats)と呼ばれる高台に豊富な銀の鉱脈を見つけた。トゥームストーンという名はシーフェリンがこの地の銀鉱の採掘権を得たとき、この地の過酷な環境を揶揄してつけられたものであった。シーフェリンは石を集めていたとき、部下の兵士に、水のない丘陵地帯で、しかもアパッチ族による攻撃まで受けるこの地で見つける石は彼の墓石(トゥームストーン)になるであろうと言ったのである。
1879年にトゥームストーンは正式な町になった。この町は銀の鉱山町として急速に発展を遂げ、翌々年の1881年には人口1,000人に達し、市に昇格した。市に昇格すると、今度は1年経たないうちに人口5,000-15,000人にまで増え、新しく成立したコチセ郡(Cochise County)の郡庁所在地になった。市には冷蔵施設ができ、アイスクリーム店やアイススケートリンクまでもができた。水道施設が整えられ、電報や電話も開通した。コーンウォールやヨーロッパ出身の資産家・実業家たちはこの地に移民として流入してきた。中国系移民によってサービス業も発達した。
しかし、荒野の中に突如として形成されたトゥームストーンの町は良いことずくめではなかった。鉄道がなかったため、発展した町の中心部とは対照的に、周囲には荒涼とした、人気のない砂漠が広がっていた。そうした砂漠を活動範囲とするギャングもいて、治安はあまり良いとは言えなかった。ギャングたちはトゥームストーンにやってきては町を荒らし、北部の実業家や移民の鉱夫たちを殺したりもした。
凋落と観光化[編集]
旧コカイズ郡裁判所の処刑場の絞首台
繁栄は長くは続かなかった。もともと砂漠地帯で水が不足していた上、爆発的な人口増加によって突貫工事で建てられた木造の建物が多かったトゥームストーンは、1881年と1882年5月の2度にわたって大火に見まわれた。特に2度目の大火は、トゥームストーンの繁栄の歴史に終止符を打ったと言っても過言ではないものであった。1880年代中盤に入ると、銀鉱は掘り尽くされ、坑内は地下水であふれるようになった。
以後、トゥームストーンは凋落への道をたどり、ゴーストタウンと化した。1929年には南東約45kmに位置し、銅の露天掘りで人口が増えたビズビーに郡庁が移った。しかし、旧コカイズ郡裁判所と隣接する処刑場は博物館として残っている。
ブート・ヒル墓地(Boot Hill Graveyard)は、トゥームストーンが繁栄していた時期に暴力、または病気で亡くなった人たちが眠る墓地である。この墓地はトゥームストーンでリンチにあった、もしくは死刑を受けた者(人違いで死刑になった者もいるとの解説が墓地内にある)の行き先でもあり、死者が履いていたブーツが墓碑(簡素な木製のもの)に掛けられたことから、この名が付いた。現在、墓碑は木を模した金属製に置き換えられているが、当時の雰囲気を充分に味わうことができる。この歴史的な墓場の入り口には土産物屋があり、その店内から入場料を払い入ることになる。
1881年にトゥームストーンで起きた暴力事件の代表とも言えるOK牧場の決闘が起きた場所も史跡として残っている。同史跡は見学料を課しているが、市のメインストリートであるフレモント通り(州道80号線)からその大部分を見ることができる。
トゥームストーンはまた、世界最大のバラの茂みが植えられている地でもある。このバラの茂みはギネスブックにも登録されている。1885年に植えられたこのレディー・バンクシア種(Lady Banksia)のバラは、1年を通じて晴天に恵まれたこの地の気候の影響もあって成長状態が良く、宿屋の屋根上約743m²をカバーし、12本の幹を有している。[1]
現在のダウンタウン・トゥームストーン
こういった歴史的なものが数多く存在するトゥームストーンは、1961年に「1870年代から1880年代にかけての辺境の町の町並みが最もよく保存された例」として国の歴史地区に指定された。現在のトゥームストーンの主産業はこの歴史地区を生かした観光である。2005年7月に発表されたCNNの記事によると、トゥームストーンを訪れる観光客の数は年間450,000人に上る。現在の常住人口が約1,500人であるので、人口1人あたり300人の観光客が訪れている計算になる。しかし市内の酒場が24時間営業し、売春宿が立ち並んだ全盛期とは異なり、現在のトゥームストーンは落ち着いたコミュニティで、夜遅くまで開いている店はほとんどない。
しかし過度な観光化は、トゥームストーンの歴史的価値が危機にさらすことでもあった。2004年、アメリカ国立公園局(NPS)はトゥームストーンの歴史地区が「危機状態」にあると宣言し、地元コミュニティに対し、適切なスチュワードシップ制による保全を求めた。国立公園局が不適切と指摘した点には次のようなものがある。
新しく建てられた建物に対し「歴史的」な日付の記載がなされている。
新しく建てられた建物と歴史的建造物との区別が困難である。
歴史的建造物に対し、不適切な建材を用いている。
歴史的建造物を修復するのではなく、新たに建て替えている。
憶測による、十分な根拠のない建材で建て替えられ、建物の歴史的側面が失われている。
既存の歴史的建造物を大幅に増築したり、敷地内に新しい建物を建てたりしている。
歴史的な看板を囲む点滅灯の使用など、看板にイルミネーションを用いている。
トゥームストーンに存在しなかったはずの建築様式で建物が建てられている。
また、市内の道が舗装されたことも、歴史的な町並みの保存に反するものであるとされた。
これらの問題点の対策として、2006年1月現在、トゥームストーン修復委員会(Tombstone Restoration Committee)は市内の歴史的建造物の修復に尽力している。市内の通りに施された舗装は剥がされ、再び「歴史的」な埃道に戻った。
地理[編集]
トゥームストーンの位置
トゥームストーンは北緯31度42分57秒西経110度3分53秒(31.715940, -110.064827)に位置している。ツーソンの東南東約110km、フェニックスの南東約300kmに位置している。
アメリカ合衆国統計局によると、トゥームストーン市は総面積11.1km²(4.3mi²)である。市の全域が陸地であり、水域はない。
ダウンタウンは西北西-東南東方向に約2km、北北東-南南西方向に約800mの範囲内に収まっている。ダウンタウンの道路は整然と区画されている。アリゾナ州道80号線がダウンタウンを通っており、フレモント通り(Fremont Street)として市のメインストリートになっている。西部開拓時代の町並み保存の一環として、アレン通り(Allen Street)など一部のダウンタウンの通りは舗装が剥がされている。
トゥームストーンの気候は温暖な冬と暑い夏、そして1年を通じて乾燥した気候に特徴付けられる。夏の平均気温は摂氏27度ほどだが、日中は摂氏35度に達する。ただし湿度が低いため、夜になると摂氏20度程度まで下がって涼しくなり、日本のような熱帯夜にはならない。冬でも平均気温は摂氏10度程度、夜でも氷点下に下がることは滅多にない。降水量は1年を通じて月間0-25mmほどであるが、7月・8月は短い雨季で、月間75mm程度の降水がある。年間降水量は200-250mm程度である。ケッペンの気候区分では砂漠気候(BW)に属する。
人口動勢[編集]
以下は2000年の国勢調査における人口統計データである。
基礎データ 人口: 1,504人
世帯数: 694世帯
家族数: 419家族
人口密度: 135.0人/km²(349.8人/mi²)
住居数: 839軒
住居密度: 75.3軒/km²(195.1軒/mi²)
人種別人口構成 白人: 87.37 %
黒人: 0.60 %
インディアン: 1.00 %
アジア人: 0.33 %
その他の人種: 8.18 %
混血: 2.53 %
ヒスパニック・ラテン系: 24.14 %
年齢別人口構成 18歳未満: 19.3 %
18-24歳: 4.9 %
25-44歳: 19.9 %
45-64歳: 32.5 %
65歳以上: 23.3 %
年齢の中央値: 49歳
性比(女性100人あたり男性の人口) 総人口: 94.3
18歳以上: 91.0
世帯と家族(対世帯数) 18歳未満の子供がいる: 20.2 %
結婚・同居している夫婦: 47.6 %
未婚・離婚・死別女性が世帯主: 7.9 %
非家族世帯: 39.5 %
単身世帯: 32.9 %
65歳以上の老人1人暮らし: 15.3 %
平均構成人数 世帯: 2.17人
家族: 2.73人
収入と家計 収入の中央値 世帯: 26,571米ドル
家族: 33,750米ドル
性別 男性: 26,923米ドル
女性: 18,846米ドル
人口1人あたり収入: 15,447米ドル
貧困線以下 対人口: 17.4 %
対家族数: 13.0 %
18歳未満: 22.6 %
65歳以上: 13.1 %

2014年04月09日
ビリー・ザ・キッド
ビリー・ザ・キッド
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ビリー・ザ・キッド
Billy the Kid
生誕
1859年11月23日
アメリカ合衆国、ニューヨーク州ニューヨーク?
死没
1881年7月14日(満21歳没)
アメリカ合衆国、ニューメキシコ州フォートサムナー
死因
射殺
別名
ウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア、ヘンリー・アントリム、ウィリアム・H・ボニー
罪名
殺人、脱獄
職業
牧場手伝い、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー
両親
キャサリーン(母)
ビリー・ザ・キッド(英語: Billy the Kid、1859年11月23日 - 1881年7月14日) は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー。
目次
[非表示] 1 生涯
2 死後
3 ビリー・ザ・キッドをテーマとした作品 3.1 映画
3.2 テレビ映画
3.3 歌・音楽
3.4 小説
3.5 漫画
4 脚注
5 関連項目
生涯[編集]
ニューヨークに生まれ西部のニューメキシコ州で育ったと言われる。本名はウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア(William Henry McCarty, Jr.)とされるが、偽名としてヘンリー・アントリム(Henry Antrim)、ウィリアム・H・ボニー(William H. Bonney)という名前も知られている。家族は母のキャサリーンとジョセフという兄(腹違いの弟という説もある)が一人いた。父親は研究者の間でも諸説あり、よく分かっていない。有名な二つ名以外の本名としてはウィリアム・H・ボニーの名がもっとも知られており、サインにも使われ州知事に恩赦を求めて本人が書いた手紙等(ちなみに一般的な粗雑で無法者のイメージとは違ってビリー自身は達筆であり、母親からだと推察されるが良質な教育を受けたことを伺わせる)が残っているほか、下記の墓石にも刻まれている。
南北戦争期でも特に知られたアウトローで、ワイアット・アープ、ジェシー・ジェイムズ等とならんで盛んに西部劇の題材となり、一つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である。彼の激しく、短い生涯は作家達に主題を与え、まずはダイム・ノベルと呼ばれる三文小説が、そして劇が、時代が下ると映画がビリーの生涯をさまざまな伝説で彩ることとなる。
12歳の時に母親を侮辱した男を殺してアウトローとなったとされ、10代はじめに殺人を犯してから死ぬまでに21人を殺害した(メキシカンやインディアンは含まない)とされる。但し、研究者によれば、実際に家を出たのは母が死んだ15歳の時、最初の殺人を犯したのは17歳の時であったという[誰によって?]。また、殺害した人数については、確実だと目される実数はおそらく9人(自分1人で4人、他の助けを得て5人)ではないかとも言われている[誰によって?]。
アリゾナやテキサス、さらにメキシコ国境で牛泥棒、強盗や殺人を重ねた。
伝統的に人々に膾炙されているビリー・ザ・キッド像は21人を殺し、21歳で殺された左利きの伝説的な早撃ち少年ガンマンというものである。
人気のある人物だけに、鏡で銃を抜く敵を見て振り返らずに撃ち倒した、などの虚実入り混じった銃の腕前を示すエピソードは多い。
実際、射撃と騎乗に関しては天賦のものがあったようで、馬を疾駆させながら杭に止まった鳥を次々に打ち落としたり、空中に投げ上げた空き缶が地上に落ちる前に6発、弾倉が空になるまで撃ち当てることができた、といった技術を賞賛する同僚のカウボーイの証言や世話になった家族の前で見事なロデオの腕前を見せた証言が残されている。 多くの目撃者が居た一例を挙げると、ビリーがサムナー砦に潜伏していた時、ビリーが居たサロンに流れ者のカウボーイのジョー・グランドがやって来た。ジョーは喧嘩っぱやく自慢の真珠のグリップの拳銃を抜きたがる危険な男だったが、ビリーはまず持ち味の人当たりの良さを発揮してジョーに拳銃を見せてくれるように頼み、残弾を確かめて初弾が空のシリンダーに当るように回しておいた(または弾を抜き取ってしまっていたとも)。やがて口論になり、ビリーがサロンの入口に向かうとジョーはビリーの背に向けて引き金を引いた。撃鉄が空のシリンダーを叩く音を聞くと、ビリーは凄まじい速さで振り返りながら抜き撃ちをし、ジョーの眉間を三発撃ち抜いた。何事もなかったかのように鼻歌を歌いながら去っていくビリーの後に残された死体を確かめると、ほぼ同じ場所を撃ち抜いた弾痕はコイン一枚分ほどの大きさしかなかったという。
左利きであったという伝説も有名である。残された写真では左に拳銃を差していたことに拠り、後に映画などでその伝説が定着した。これは、実際には写真が裏焼きで裏返しになっていただけだという説、ビリーは小柄だったので女物の服を着ていたため、写真は裏焼きではなく、右前のボタンの位置から見て左利きであっているという説があり、議論は続いている[要出典]。
目は青く、史伝などによれば身長は5フィート8インチないし9インチはあったとされる(西部劇のヒーロー的にあまり背が低いとまずかったのかもしれない)が、残された写真のウィンチェスターライフルとの比較などの、研究者の分析の結果、身長は5フィート3インチ (160cm) に足らないくらい、華奢な体つきで、キッドの二つ名通り小柄で非常な優男だったようである。
よく知られた彼の特徴として、修羅場の最中でも常に上機嫌な笑顔を浮かべて哄笑を発しながら人を殺したという。ビリーを射殺した保安官のパット・ギャレットの本に拠れば、新聞ではビリーは反っ歯と言われているが、前歯がリスのように大きくて歯列全体が前にでているので、意識しないと、笑うつもりがないのに笑ったように見える地顔であったという。また、手と足がとても小さかったとも述べられ、この二つの特徴も残された写真から読み取れる。ビリーが世話になったポーリータ・マックスウェルの証言などに拠れば、身なりにとても気を使う伊達者で、ファンダンゴの名手であったとされる。その時代のアメリカ西部の無法者としては口が達者で、異様に親しみやすい態度の持ち主であったという。
リンカーン郡でイギリス移民ジョン・タンストールの売店の用心棒となったが、商売敵との縄張り争いが拡大し、リンカーン郡戦争と呼ばれる騒動に発展、過失で4人を射殺し1880年12月に友人でもあった保安官、パット・ギャレットによって仲間と共に逮捕される。1881年4月18日に刑務所を脱走。このことが『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ、有名となる。同年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーにてギャレットに射殺される。その時ビリーは丸腰で、寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われる。寸前に発した最期の言葉はスペイン語の「誰だ?(¿Quién es?)」だとされている。だが死の状況に不自然な点も多く、後に自分こそがビリー・ザ・キッドだったと名乗り出た人物などもいて、生存説も根強く残されている。
ビリーの墓
ビリーの墓石は度々洪水で押し流されたり盗難に遭ったりの災禍を経た後、現在の元の墓所と思われる場所に安置し直された。しかし、その後も彼の人気故に記念品として削られたりして持ち帰られてしまうため、現在は写真のように檻に囲われている。
墓石の前に設置された石碑には、このような墓碑銘が刻まれている。
Truth and History.
21 Men.
The Boy Bandit King
He Died As He Lived
(真実と経歴。21人を殺した。少年悪漢王 彼は彼らしく生きて死んだ)
— William H. Bonney "Billy the Kid"
死後[編集]
ビリーの生前、当時のニューメキシコ州知事ルー・ウォーレスが恩赦を与えようとしたという説があり[1]、これを根拠に2010年には正式な恩赦の請願が行われた。しかし、12月31日にビル・リチャードソン知事は前任者の決定を覆す証拠がないとして認めなかった。なお、リチャードソン自身はビリーのファンであり、個人的にはこの説を信じているという[2][3]。
2011年6月25日、ティンタイプ(湿板写真)という方法で撮影された、ビリーの肖像写真がコロラド州デンバーで競売にかけられ、230万ドル(約1億8500万円)で落札された[4]。
ビリー・ザ・キッドをテーマとした作品[編集]
映画[編集]
ビリー・ザ・キッド (Billy the Kid, 1930年, 監督:キング・ヴィダー, 主演:ジョニー・マック・ブラウン)
ならず者 (The Outlaw, 1943年, 監督:ハワード・ヒューズ, 主演:ジャック・ビューテル)
左きゝの拳銃 (The Left Handed Gun, 1958年, 監督:アーサー・ペン, 主演:ポール・ニューマン)
ビリー・ザ・キッド対ドラキュラ (Billy The Kid VS. Dracula, 1965年, 監督:ウィリアム・ボーダイン, 主演:チャック・コートニー)
ビリー・ザ・キッド/21才の生涯 (Pat Garrett and Billy the Kid, 1973年, 監督:サム・ペキンパー, 主演:クリス・クリストファーソン)
ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け (1986年, 監督:山川直人, 主演:三上博史)
ヤングガン (Young Guns, 1988年, 監督:クリストファー・ケイン, 主演:エミリオ・エステベス)
ビルとテッドの大冒険 (Bill And Ted's Excellent Adventure, 1988年, 監督:スティーヴン・ヘレク, 主演:ダン・ショアー)
ヤングガン2 (Young Guns II, 1990年, 監督:ジョフ・マーフィ, 主演:エミリオ・エステベス)
テレビ映画[編集]
ビリー・ザ・キッド (Billy the Kid, 1989年, 監督:ウィリアム・A・グレアム, 主演:ヴァル・キルマー)
歌・音楽[編集]
1938年 - Billy the Kid(バレエ) : アーロン・コープランド作曲
1971年 - Billy The Kid : ライ・クーダー (トラディショナル、ライ・クーダー編曲)
Billy the Kid : クリス・ルドゥ (Chris LeDoux)
The Ballad of Billy The Kid : ビリー・ジョエル
ブレイズ・オブ・グローリー Blaze of Glory : ジョン・ボン・ジョヴィのアルバム
さよならビリー・ザ・キッド : 真島昌利
Billy The Kid : ランニング・ワイルド (RUNNING WILD)
2008年 - ビリー : ケセラ・スパンキー・ロウズ (Quesera spunky roars)
小説[編集]
1974年 - マイケル・オンダーチェ「The Collected Works of Billy the Kid」(邦題『ビリー・ザ・キッド全仕事』)
1974年 - 片岡義男『友よ、また逢おう - ビリー・ザ・キッドの伝説』
1987年 - N・スコット・モマデイ (N. Scott Momaday) 「The Ancient Child」
漫画[編集]
ウルフガン - 村枝賢一による、ビリー・ザ・キッドをテーマにした読みきり漫画作品。『村枝賢一短編集 1 ウルフガン』に収録。
ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM (Bbmf マガジン刊) 六田登による、ビリー・ザ・キッドをテーマに長編コミック。全3巻刊行。
脚注[編集]
1.^ ルー・ウォーレス#戦後の経歴を参照
2.^ 西部劇の英雄、恩赦ならず 米のビリー・ザ・キッド - 2011年1月4日 47NEWS
3.^ ビリー・ザ・キッド、死後130年後の恩赦認められず - 2011年1月4日 CNN.co.jp
4.^ “西部の英雄、2億円弱で写真落札 米のビリー・ザ・キッド”. 共同通信 (2011年6月26日). 2011年6月26日閲覧
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ビリー・ザ・キッド
Billy the Kid
生誕
1859年11月23日
アメリカ合衆国、ニューヨーク州ニューヨーク?
死没
1881年7月14日(満21歳没)
アメリカ合衆国、ニューメキシコ州フォートサムナー
死因
射殺
別名
ウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア、ヘンリー・アントリム、ウィリアム・H・ボニー
罪名
殺人、脱獄
職業
牧場手伝い、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー
両親
キャサリーン(母)
ビリー・ザ・キッド(英語: Billy the Kid、1859年11月23日 - 1881年7月14日) は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー。
目次
[非表示] 1 生涯
2 死後
3 ビリー・ザ・キッドをテーマとした作品 3.1 映画
3.2 テレビ映画
3.3 歌・音楽
3.4 小説
3.5 漫画
4 脚注
5 関連項目
生涯[編集]
ニューヨークに生まれ西部のニューメキシコ州で育ったと言われる。本名はウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア(William Henry McCarty, Jr.)とされるが、偽名としてヘンリー・アントリム(Henry Antrim)、ウィリアム・H・ボニー(William H. Bonney)という名前も知られている。家族は母のキャサリーンとジョセフという兄(腹違いの弟という説もある)が一人いた。父親は研究者の間でも諸説あり、よく分かっていない。有名な二つ名以外の本名としてはウィリアム・H・ボニーの名がもっとも知られており、サインにも使われ州知事に恩赦を求めて本人が書いた手紙等(ちなみに一般的な粗雑で無法者のイメージとは違ってビリー自身は達筆であり、母親からだと推察されるが良質な教育を受けたことを伺わせる)が残っているほか、下記の墓石にも刻まれている。
南北戦争期でも特に知られたアウトローで、ワイアット・アープ、ジェシー・ジェイムズ等とならんで盛んに西部劇の題材となり、一つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である。彼の激しく、短い生涯は作家達に主題を与え、まずはダイム・ノベルと呼ばれる三文小説が、そして劇が、時代が下ると映画がビリーの生涯をさまざまな伝説で彩ることとなる。
12歳の時に母親を侮辱した男を殺してアウトローとなったとされ、10代はじめに殺人を犯してから死ぬまでに21人を殺害した(メキシカンやインディアンは含まない)とされる。但し、研究者によれば、実際に家を出たのは母が死んだ15歳の時、最初の殺人を犯したのは17歳の時であったという[誰によって?]。また、殺害した人数については、確実だと目される実数はおそらく9人(自分1人で4人、他の助けを得て5人)ではないかとも言われている[誰によって?]。
アリゾナやテキサス、さらにメキシコ国境で牛泥棒、強盗や殺人を重ねた。
伝統的に人々に膾炙されているビリー・ザ・キッド像は21人を殺し、21歳で殺された左利きの伝説的な早撃ち少年ガンマンというものである。
人気のある人物だけに、鏡で銃を抜く敵を見て振り返らずに撃ち倒した、などの虚実入り混じった銃の腕前を示すエピソードは多い。
実際、射撃と騎乗に関しては天賦のものがあったようで、馬を疾駆させながら杭に止まった鳥を次々に打ち落としたり、空中に投げ上げた空き缶が地上に落ちる前に6発、弾倉が空になるまで撃ち当てることができた、といった技術を賞賛する同僚のカウボーイの証言や世話になった家族の前で見事なロデオの腕前を見せた証言が残されている。 多くの目撃者が居た一例を挙げると、ビリーがサムナー砦に潜伏していた時、ビリーが居たサロンに流れ者のカウボーイのジョー・グランドがやって来た。ジョーは喧嘩っぱやく自慢の真珠のグリップの拳銃を抜きたがる危険な男だったが、ビリーはまず持ち味の人当たりの良さを発揮してジョーに拳銃を見せてくれるように頼み、残弾を確かめて初弾が空のシリンダーに当るように回しておいた(または弾を抜き取ってしまっていたとも)。やがて口論になり、ビリーがサロンの入口に向かうとジョーはビリーの背に向けて引き金を引いた。撃鉄が空のシリンダーを叩く音を聞くと、ビリーは凄まじい速さで振り返りながら抜き撃ちをし、ジョーの眉間を三発撃ち抜いた。何事もなかったかのように鼻歌を歌いながら去っていくビリーの後に残された死体を確かめると、ほぼ同じ場所を撃ち抜いた弾痕はコイン一枚分ほどの大きさしかなかったという。
左利きであったという伝説も有名である。残された写真では左に拳銃を差していたことに拠り、後に映画などでその伝説が定着した。これは、実際には写真が裏焼きで裏返しになっていただけだという説、ビリーは小柄だったので女物の服を着ていたため、写真は裏焼きではなく、右前のボタンの位置から見て左利きであっているという説があり、議論は続いている[要出典]。
目は青く、史伝などによれば身長は5フィート8インチないし9インチはあったとされる(西部劇のヒーロー的にあまり背が低いとまずかったのかもしれない)が、残された写真のウィンチェスターライフルとの比較などの、研究者の分析の結果、身長は5フィート3インチ (160cm) に足らないくらい、華奢な体つきで、キッドの二つ名通り小柄で非常な優男だったようである。
よく知られた彼の特徴として、修羅場の最中でも常に上機嫌な笑顔を浮かべて哄笑を発しながら人を殺したという。ビリーを射殺した保安官のパット・ギャレットの本に拠れば、新聞ではビリーは反っ歯と言われているが、前歯がリスのように大きくて歯列全体が前にでているので、意識しないと、笑うつもりがないのに笑ったように見える地顔であったという。また、手と足がとても小さかったとも述べられ、この二つの特徴も残された写真から読み取れる。ビリーが世話になったポーリータ・マックスウェルの証言などに拠れば、身なりにとても気を使う伊達者で、ファンダンゴの名手であったとされる。その時代のアメリカ西部の無法者としては口が達者で、異様に親しみやすい態度の持ち主であったという。
リンカーン郡でイギリス移民ジョン・タンストールの売店の用心棒となったが、商売敵との縄張り争いが拡大し、リンカーン郡戦争と呼ばれる騒動に発展、過失で4人を射殺し1880年12月に友人でもあった保安官、パット・ギャレットによって仲間と共に逮捕される。1881年4月18日に刑務所を脱走。このことが『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ、有名となる。同年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーにてギャレットに射殺される。その時ビリーは丸腰で、寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われる。寸前に発した最期の言葉はスペイン語の「誰だ?(¿Quién es?)」だとされている。だが死の状況に不自然な点も多く、後に自分こそがビリー・ザ・キッドだったと名乗り出た人物などもいて、生存説も根強く残されている。
ビリーの墓
ビリーの墓石は度々洪水で押し流されたり盗難に遭ったりの災禍を経た後、現在の元の墓所と思われる場所に安置し直された。しかし、その後も彼の人気故に記念品として削られたりして持ち帰られてしまうため、現在は写真のように檻に囲われている。
墓石の前に設置された石碑には、このような墓碑銘が刻まれている。
Truth and History.
21 Men.
The Boy Bandit King
He Died As He Lived
(真実と経歴。21人を殺した。少年悪漢王 彼は彼らしく生きて死んだ)
— William H. Bonney "Billy the Kid"
死後[編集]
ビリーの生前、当時のニューメキシコ州知事ルー・ウォーレスが恩赦を与えようとしたという説があり[1]、これを根拠に2010年には正式な恩赦の請願が行われた。しかし、12月31日にビル・リチャードソン知事は前任者の決定を覆す証拠がないとして認めなかった。なお、リチャードソン自身はビリーのファンであり、個人的にはこの説を信じているという[2][3]。
2011年6月25日、ティンタイプ(湿板写真)という方法で撮影された、ビリーの肖像写真がコロラド州デンバーで競売にかけられ、230万ドル(約1億8500万円)で落札された[4]。
ビリー・ザ・キッドをテーマとした作品[編集]
映画[編集]
ビリー・ザ・キッド (Billy the Kid, 1930年, 監督:キング・ヴィダー, 主演:ジョニー・マック・ブラウン)
ならず者 (The Outlaw, 1943年, 監督:ハワード・ヒューズ, 主演:ジャック・ビューテル)
左きゝの拳銃 (The Left Handed Gun, 1958年, 監督:アーサー・ペン, 主演:ポール・ニューマン)
ビリー・ザ・キッド対ドラキュラ (Billy The Kid VS. Dracula, 1965年, 監督:ウィリアム・ボーダイン, 主演:チャック・コートニー)
ビリー・ザ・キッド/21才の生涯 (Pat Garrett and Billy the Kid, 1973年, 監督:サム・ペキンパー, 主演:クリス・クリストファーソン)
ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け (1986年, 監督:山川直人, 主演:三上博史)
ヤングガン (Young Guns, 1988年, 監督:クリストファー・ケイン, 主演:エミリオ・エステベス)
ビルとテッドの大冒険 (Bill And Ted's Excellent Adventure, 1988年, 監督:スティーヴン・ヘレク, 主演:ダン・ショアー)
ヤングガン2 (Young Guns II, 1990年, 監督:ジョフ・マーフィ, 主演:エミリオ・エステベス)
テレビ映画[編集]
ビリー・ザ・キッド (Billy the Kid, 1989年, 監督:ウィリアム・A・グレアム, 主演:ヴァル・キルマー)
歌・音楽[編集]
1938年 - Billy the Kid(バレエ) : アーロン・コープランド作曲
1971年 - Billy The Kid : ライ・クーダー (トラディショナル、ライ・クーダー編曲)
Billy the Kid : クリス・ルドゥ (Chris LeDoux)
The Ballad of Billy The Kid : ビリー・ジョエル
ブレイズ・オブ・グローリー Blaze of Glory : ジョン・ボン・ジョヴィのアルバム
さよならビリー・ザ・キッド : 真島昌利
Billy The Kid : ランニング・ワイルド (RUNNING WILD)
2008年 - ビリー : ケセラ・スパンキー・ロウズ (Quesera spunky roars)
小説[編集]
1974年 - マイケル・オンダーチェ「The Collected Works of Billy the Kid」(邦題『ビリー・ザ・キッド全仕事』)
1974年 - 片岡義男『友よ、また逢おう - ビリー・ザ・キッドの伝説』
1987年 - N・スコット・モマデイ (N. Scott Momaday) 「The Ancient Child」
漫画[編集]
ウルフガン - 村枝賢一による、ビリー・ザ・キッドをテーマにした読みきり漫画作品。『村枝賢一短編集 1 ウルフガン』に収録。
ビリー・ザ・キッド 21枚のALBUM (Bbmf マガジン刊) 六田登による、ビリー・ザ・キッドをテーマに長編コミック。全3巻刊行。
脚注[編集]
1.^ ルー・ウォーレス#戦後の経歴を参照
2.^ 西部劇の英雄、恩赦ならず 米のビリー・ザ・キッド - 2011年1月4日 47NEWS
3.^ ビリー・ザ・キッド、死後130年後の恩赦認められず - 2011年1月4日 CNN.co.jp
4.^ “西部の英雄、2億円弱で写真落札 米のビリー・ザ・キッド”. 共同通信 (2011年6月26日). 2011年6月26日閲覧

2014年04月09日
ワイルド・ビル・ヒコック
ワイルド・ビル・ヒコック
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ワイルド・ビル・ヒコック
ジェームズ・バトラー・ヒコック(James Butler Hickok, 1837年5月27日 - 1876年8月2日)は、ワイルド・ビル・ヒコック(Wild Bill Hickok)の愛称で知られたアメリカ合衆国西部開拓時代のガンマン、北軍兵士。
ヒコックはイリノイ州トロイ・グローブで生まれた。彼はサンタ・フェとオレゴン・トレイルの駅馬車御者になるため父親の農場を1855年に離れる。彼の拳銃の腕はその愛称に結びついた。1857年に彼は、カンザス州ジョンソン郡(現在レネックサ市の一部)の160エーカーの土地を要求し、モンティセロ郡区の治安官になった[1]。1861年には、ネブラスカ州で町の保安官になる。
駅馬車の御者やバッファロー・ハンターとして生計を立てていたが、南北戦争では北軍に雇われて情報を収集した。1872年から1873年にかけては、バッファロー・ビルが主催する西部劇ショーの「Wild West Show」に参加して東部を巡業した。サウスダコタ州の酒場でポーカーに興じているところを無宿者に背後から撃たれ殺された。なお、このときビルが手に持っていたトランプがAと8のツーペアだったとされるため、この手は「デッドマンズ・ハンド」と呼ばれている
映画[編集]
平原児(セシル・B・デミル監督、1936年、演:ゲイリー・クーパー)
ミズーリ大平原(ジェリー・ホッパー監督、1953年、演:フォレスト・タッカー)
シャイアン砦(デヴィッド・ローウェル・リッチ監督、1966年、演:ドン・マレー)
ホワイト・バッファロー(J・リー・トンプソン監督、1977年、演:チャールズ・ブロンソン)
ワイルド・ビル(ウォルター・ヒル監督、1995年、演:ジェフ・ブリッジス、劇場未公開)
テレビドラマ[編集]
ヤングライダーズ - The Young Riders (1989年 - 1992年)演:ジョシュ・ブローリン
デッドウッド - Deadwood (2004年 - )演:キース・キャラダイン
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ワイルド・ビル・ヒコック
ジェームズ・バトラー・ヒコック(James Butler Hickok, 1837年5月27日 - 1876年8月2日)は、ワイルド・ビル・ヒコック(Wild Bill Hickok)の愛称で知られたアメリカ合衆国西部開拓時代のガンマン、北軍兵士。
ヒコックはイリノイ州トロイ・グローブで生まれた。彼はサンタ・フェとオレゴン・トレイルの駅馬車御者になるため父親の農場を1855年に離れる。彼の拳銃の腕はその愛称に結びついた。1857年に彼は、カンザス州ジョンソン郡(現在レネックサ市の一部)の160エーカーの土地を要求し、モンティセロ郡区の治安官になった[1]。1861年には、ネブラスカ州で町の保安官になる。
駅馬車の御者やバッファロー・ハンターとして生計を立てていたが、南北戦争では北軍に雇われて情報を収集した。1872年から1873年にかけては、バッファロー・ビルが主催する西部劇ショーの「Wild West Show」に参加して東部を巡業した。サウスダコタ州の酒場でポーカーに興じているところを無宿者に背後から撃たれ殺された。なお、このときビルが手に持っていたトランプがAと8のツーペアだったとされるため、この手は「デッドマンズ・ハンド」と呼ばれている
映画[編集]
平原児(セシル・B・デミル監督、1936年、演:ゲイリー・クーパー)
ミズーリ大平原(ジェリー・ホッパー監督、1953年、演:フォレスト・タッカー)
シャイアン砦(デヴィッド・ローウェル・リッチ監督、1966年、演:ドン・マレー)
ホワイト・バッファロー(J・リー・トンプソン監督、1977年、演:チャールズ・ブロンソン)
ワイルド・ビル(ウォルター・ヒル監督、1995年、演:ジェフ・ブリッジス、劇場未公開)
テレビドラマ[編集]
ヤングライダーズ - The Young Riders (1989年 - 1992年)演:ジョシュ・ブローリン
デッドウッド - Deadwood (2004年 - )演:キース・キャラダイン

2014年04月09日
ガンマン

ガンマン
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ガンマンとは、アメリカの西部開拓時代(南北戦争前後から20世紀初頭ころまで)に活躍した、銃器に熟練した保安官やカウボーイそして流浪者などをいう。アメリカでは一般的に gunfighter または gunslinger と呼ばれ、gunman は銃を持った悪党の意味が強い。その実態のほとんどは、殺人・強盗・窃盗などを常習とする犯罪者やギャンブラーのような遊び人で占められていた。銃を片手に男達に勝るとも劣らない、『ガンマン』と呼ぶに相応しい女達もいたが、上記の通り原語では男を指す単語ではない。
19世紀後半から20世紀初頭にかけアメリカ国内で出版された三文小説ダイムノベル(Dime Novel - パルプマガジンの前身。1冊1dimeつまり10セントだった事から)に多くのガンマンがヒーローとして描かれ読者の支持を得、さらに20世紀に入るとガンマンを主人公にした映画やTVドラマが大量に製作され(西部劇)、世界各国に配給されて多くのヒット作を残したことから、個々の名が世間に知られるようになった。フロンティアの消滅とともにガンマンは伝説化し、現代アメリカ人の郷愁を呼び起こす存在のひとつになっている。
ガンマンが登場する初期の小説や映画が、大衆に理解されやすい勧善懲悪物として描かれたことから、個々の人物が善玉と悪玉とに別れ定着していることが多い。つまり、善玉のアープ一家と対決するのは、あくまで悪玉のクラントン一家なのである。そうでないと西部劇は成立しない。従って以下に掲示された人物評も、伝承や小説及び映画の中の作り話がほとんどで、全てを事実として信ずるには値しない。
主なガンマン[編集]
オールド・マン・クラントン(Old Man Clanton)
ジャック・スレード(Jack Slade)
ヘンリー・プランマー(Henry Plummer)
ワイルド・ビル・ヒコック(Wild Bill Hickok)
ウィリアム・クェントリル(William Quantrill)
クレー・アリソン(Clay Allison)
ベン・トンプソン(Ben Thompson)
コール・ヤンガー(Cole Yanger)
カーリー・ビル(Curly Bill)
バッファロー・ビル(William Cody)
ジェシー・ジェイムズ(Jessy James)
ワイアット・アープ(Wyatt Earp)
ジム・カートライト(Jim Courtright)
パット・ギャレット(Patrick Garret)
リンゴ・キッド(John Ringo)
サム・バス(Sam Bass)
ドク・ホリディ(John Holliday)
ジョン・ハーディン(John Hardin)
ルーク・ショート(Luke Short)
キング・フィッシャー(King Fisher)
バット・マスターソン(William Masteson)
ビリー・ザ・キッド(William Bonney)
キッド・カーリー(Harvey Logan)
ブッチ・キャシディ(Butch Cassidy)
サンダンス・キッド(Harry Longbaugh)
トム・ホーン(Tom Horn)
女性[編集]
ベル・スター(Belle Starr)
カラミティ・ジェーン(Calamity Jane)
アニー・オークレイ(Annie Oakley)
2014年04月09日
ダッチオーブン
ダッチオーブン
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1890年代製のダッチオーブン。蓋まで灰に覆われている
ダッチオーブン (英語:dutch oven) は、分厚い金属製の蓋つき鍋のうち、蓋に炭火を載せられるようにしたものの名称である。アメリカ合衆国の西部開拓時代などで使用されていたものが有名であるが、近年ではキャンプなどレジャーでの用途に使われることが多い。
目次
[非表示] 1 概要 1.1 素材
1.2 使用法
1.3 種類
1.4 特徴
2 シーズニング
3 日常的な手入れ
4 長期の保管
5 語源
6 関連項目
7 脚注
概要[編集]
素材[編集]
鋳鉄製のものが一般的だが、アルミニウム合金や鋼板製・ステンレスのものもある。ロッジ社のものが特に有名であるが、それ以外にもヤマゼン、キャプテン・スタッグ、ユニフレーム、SOTO等様々なメーカーから多様な商品が販売されている。
使用法[編集]
ダッチオーブンでチリコンカーンを煮るカウボーイ(1930年代、テキサス州にて)
アメリカ合衆国で伝統的に用いられている蓋は全体的に平らなデザインで、周囲に縁取りがあり蓋の上にも炭などの熱源を置くことができ、オーブンと同じように上下から同時に加熱することができる。このようなデザインは、炭火を利用したローストチキンやピザ、パンなどの調理に適している[1]。また、蓋をフライパンのように用いることも不可能ではない。
オーストラリアではキャンプオーブン(camp oven)、フランスではココット(cocotte)と呼ばれている。南アフリカ共和国のポティー(potjie)やバルカン半島のサッチ(sač)もほぼ同じ構造である。これ以外にも日本の南部鉄器などダッチオーブンに似た鋳鉄製の深鍋は存在するが、殆どの場合これらの地域において、鋳鉄製の深鍋は煮込み料理にのみ用いられる。
ダッチオーブンと呼ばれるものは本来、蓋に置かれた炭火を利用したオーブンとしても使える点に特徴を持つ。この形状は北アメリカの、いわゆる「西部開拓」の時期には既に存在していたとされる[要出典]。この点について詳しく解説すると、ダッチオーブンとはその名称の通り、オーブンとしても使用されるものなのであり、その形状はそのような使用法の為に進化してきたものなのである。オーブンとして使用しない鋳鉄製の深鍋であれば、世界各地に存在している。
なお、近年、日本国においては後述のスキレットやコンボクッカーのような製品も「ダッチオーブン」と呼ばれることがある。
種類[編集]
キッチンオーブン2種。手前がフレンチ・オーブン
ダッチオーブンには用途に応じて以下のような種類がある。
キャンプオーブン - 野外活動での使用が前提で、焚き火にくべやすいよう三本の足を持っている。蓋の上にさらに何段かオーブンを積み重ねることもでき、蓋の上の炭を上下両方の鍋の加熱に使えて効率的である。
キッチンオーブン - 台所での使用が前提で、コンロにかけやすいよう底が平らになっている。このデザインをもとに、使いやすいよう改良されたものを「モダン・ダッチ・オーブン」と呼ぶこともある。フランスのル・クルーゼ社の製品が有名であるが、ル・クルーゼ社は自社の製品を「フレンチ・オーブン」と呼称している。
スキレット - いわゆるフライパンタイプの鍋だが、ダッチオーブンの特徴である厚みがあるため温度変化が少ない。
コンボクッカー - 深鍋とスキレットを組み合わせたもので、スキレットが蓋の替わりとなる。
特徴[編集]
鍋に厚みがあることで、温度変化が少なく鍋全体が均一の温度に保たれ、食材にじっくりと火が通る。 また、食材から出た水分による水蒸気が蓋と鍋の隙間を埋めて、蓋本来の重さも手伝って密閉状態になる。 この状態で暖め続けられると、内部の気圧が高くなり圧力鍋と同じ状態になる。さらに、水分が蒸気として逃げないため食材の水分を利用した無水調理がしやすい(ただしこれらはダッチオーブンにしか出来ない調理法というわけではない)。
シーズニング[編集]
「ダッチオーブン」として製造販売されている鋳鉄製の深鍋の愛好者は、多くの場合、「シーズニング」と呼ばれる独特の作業を行う(一般的なシーズニングの方法は後述)。これは意図的に鍋に黒錆(四酸化三鉄皮膜)を発生させることで、鍋の腐食を防止する技術である。他地域の鋳鉄製の深鍋の使用者はこうした作業を行わない(毎日のように使う鍋であれば、使用後に空焚きして乾かしているうちに放っておいても黒錆びがつく)。
シーズニングによって黒錆びが発生したダッチオーブンの中でも、長年の使用によって重厚な黒錆びが付着しているものは「ブラック・ポット」と呼ばれて美的鑑賞の対象になることがある。
シーズニングの一般的な手順を以下に示す。
1.錆止めオイルを、洗剤を使って丁寧に洗い落とししっかりと乾燥させる(新品時のみ)
2.鍋と蓋に食用の植物油(菜種油、大豆油、オリーブ油、グレープシード油など何でも良いが、ヒマシ油は不可)を薄く塗り、30分から60分ほど火にかけて熱し、自然冷却させる。 この作業を2~3回繰り返すこともある
3.鉄臭さをとるため、鍋にネギやショウガなどの香りの強い野菜クズを入れて炒める これを2~3回繰り返すこともある
4.洗剤や金属たわしは使用せずにスポンジや亀の子たわし等で洗い、火にかけて空焼きして乾燥させる。
日常的な手入れ[編集]
調理後は、基本的には洗剤や金属たわしを使わずに洗い、火にかけてよく乾燥させる(料理の種類によっては洗剤を使用するのも選択肢の一つである)。この状態からさらに植物油を薄く塗布する者もいるが、数日以内に再使用するような場合は不要である。
焦げつきがひどい場合には、そのまま火にかけ続けて完全に炭化させて、へらなどでこそげ落とす。毎日のように使う鍋であれば、金属たわしで掻き落としてからさっと空焼きして再び黒錆びをつけてやるだけでも良い。
よく誤解されるところであるが、きちんと黒錆びがついた鉄鍋は洗剤を付けた程度ではコンディションは変化しない。そもそも黒錆びとは強靱な酸化鉄の皮膜であり、洗剤とは界面活性剤である。界面活性剤は酸化鉄の皮膜のさらに表面に残った油脂を洗い流しはするが、四酸化三鉄皮膜を侵すものではない。鉄鍋は基本的に四酸化三鉄皮膜によって保護されているのであって、表面に残留した油脂分によってではない。もちろん年に数回しか使用しないような場合、油を引くに越したことはないが、頻繁に使用する場合は黒錆びの皮膜だけで充分である。
長期の保管[編集]
年に数回のキャンプにしか使わない場合には、前述の通り植物油を薄く塗布してから鍋の中に新聞紙などを入れて内部に湿気が籠もらない様にして、風通しの良い場所に保管する。再使用する際には洗剤とスポンジあるいは亀の子たわしを用いて表面の油脂分を洗い流す。長期間鍋の表面にあった油は酸化してしまっており、生体に害をなす。
語源[編集]
ダッチオーブン、「オランダ人のオーブン」という語源には諸説あるが定かではない。主なものには、オランダ系移民が売り歩いていた鍋であったとする説、ダッチと呼ばれた人物が発明したとする説、オランダの鋳造技術を利用したためとする説などがある。またイギリス人は「~もどき」の品物を「ダッチ~」と呼ぶ習慣があるため、本物のオーブンではないがオーブンとして使える鍋を「オーブンもどき」すなわちダッチオーブンと呼んだという説もある
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1890年代製のダッチオーブン。蓋まで灰に覆われている
ダッチオーブン (英語:dutch oven) は、分厚い金属製の蓋つき鍋のうち、蓋に炭火を載せられるようにしたものの名称である。アメリカ合衆国の西部開拓時代などで使用されていたものが有名であるが、近年ではキャンプなどレジャーでの用途に使われることが多い。
目次
[非表示] 1 概要 1.1 素材
1.2 使用法
1.3 種類
1.4 特徴
2 シーズニング
3 日常的な手入れ
4 長期の保管
5 語源
6 関連項目
7 脚注
概要[編集]
素材[編集]
鋳鉄製のものが一般的だが、アルミニウム合金や鋼板製・ステンレスのものもある。ロッジ社のものが特に有名であるが、それ以外にもヤマゼン、キャプテン・スタッグ、ユニフレーム、SOTO等様々なメーカーから多様な商品が販売されている。
使用法[編集]
ダッチオーブンでチリコンカーンを煮るカウボーイ(1930年代、テキサス州にて)
アメリカ合衆国で伝統的に用いられている蓋は全体的に平らなデザインで、周囲に縁取りがあり蓋の上にも炭などの熱源を置くことができ、オーブンと同じように上下から同時に加熱することができる。このようなデザインは、炭火を利用したローストチキンやピザ、パンなどの調理に適している[1]。また、蓋をフライパンのように用いることも不可能ではない。
オーストラリアではキャンプオーブン(camp oven)、フランスではココット(cocotte)と呼ばれている。南アフリカ共和国のポティー(potjie)やバルカン半島のサッチ(sač)もほぼ同じ構造である。これ以外にも日本の南部鉄器などダッチオーブンに似た鋳鉄製の深鍋は存在するが、殆どの場合これらの地域において、鋳鉄製の深鍋は煮込み料理にのみ用いられる。
ダッチオーブンと呼ばれるものは本来、蓋に置かれた炭火を利用したオーブンとしても使える点に特徴を持つ。この形状は北アメリカの、いわゆる「西部開拓」の時期には既に存在していたとされる[要出典]。この点について詳しく解説すると、ダッチオーブンとはその名称の通り、オーブンとしても使用されるものなのであり、その形状はそのような使用法の為に進化してきたものなのである。オーブンとして使用しない鋳鉄製の深鍋であれば、世界各地に存在している。
なお、近年、日本国においては後述のスキレットやコンボクッカーのような製品も「ダッチオーブン」と呼ばれることがある。
種類[編集]
キッチンオーブン2種。手前がフレンチ・オーブン
ダッチオーブンには用途に応じて以下のような種類がある。
キャンプオーブン - 野外活動での使用が前提で、焚き火にくべやすいよう三本の足を持っている。蓋の上にさらに何段かオーブンを積み重ねることもでき、蓋の上の炭を上下両方の鍋の加熱に使えて効率的である。
キッチンオーブン - 台所での使用が前提で、コンロにかけやすいよう底が平らになっている。このデザインをもとに、使いやすいよう改良されたものを「モダン・ダッチ・オーブン」と呼ぶこともある。フランスのル・クルーゼ社の製品が有名であるが、ル・クルーゼ社は自社の製品を「フレンチ・オーブン」と呼称している。
スキレット - いわゆるフライパンタイプの鍋だが、ダッチオーブンの特徴である厚みがあるため温度変化が少ない。
コンボクッカー - 深鍋とスキレットを組み合わせたもので、スキレットが蓋の替わりとなる。
特徴[編集]
鍋に厚みがあることで、温度変化が少なく鍋全体が均一の温度に保たれ、食材にじっくりと火が通る。 また、食材から出た水分による水蒸気が蓋と鍋の隙間を埋めて、蓋本来の重さも手伝って密閉状態になる。 この状態で暖め続けられると、内部の気圧が高くなり圧力鍋と同じ状態になる。さらに、水分が蒸気として逃げないため食材の水分を利用した無水調理がしやすい(ただしこれらはダッチオーブンにしか出来ない調理法というわけではない)。
シーズニング[編集]
「ダッチオーブン」として製造販売されている鋳鉄製の深鍋の愛好者は、多くの場合、「シーズニング」と呼ばれる独特の作業を行う(一般的なシーズニングの方法は後述)。これは意図的に鍋に黒錆(四酸化三鉄皮膜)を発生させることで、鍋の腐食を防止する技術である。他地域の鋳鉄製の深鍋の使用者はこうした作業を行わない(毎日のように使う鍋であれば、使用後に空焚きして乾かしているうちに放っておいても黒錆びがつく)。
シーズニングによって黒錆びが発生したダッチオーブンの中でも、長年の使用によって重厚な黒錆びが付着しているものは「ブラック・ポット」と呼ばれて美的鑑賞の対象になることがある。
シーズニングの一般的な手順を以下に示す。
1.錆止めオイルを、洗剤を使って丁寧に洗い落とししっかりと乾燥させる(新品時のみ)
2.鍋と蓋に食用の植物油(菜種油、大豆油、オリーブ油、グレープシード油など何でも良いが、ヒマシ油は不可)を薄く塗り、30分から60分ほど火にかけて熱し、自然冷却させる。 この作業を2~3回繰り返すこともある
3.鉄臭さをとるため、鍋にネギやショウガなどの香りの強い野菜クズを入れて炒める これを2~3回繰り返すこともある
4.洗剤や金属たわしは使用せずにスポンジや亀の子たわし等で洗い、火にかけて空焼きして乾燥させる。
日常的な手入れ[編集]
調理後は、基本的には洗剤や金属たわしを使わずに洗い、火にかけてよく乾燥させる(料理の種類によっては洗剤を使用するのも選択肢の一つである)。この状態からさらに植物油を薄く塗布する者もいるが、数日以内に再使用するような場合は不要である。
焦げつきがひどい場合には、そのまま火にかけ続けて完全に炭化させて、へらなどでこそげ落とす。毎日のように使う鍋であれば、金属たわしで掻き落としてからさっと空焼きして再び黒錆びをつけてやるだけでも良い。
よく誤解されるところであるが、きちんと黒錆びがついた鉄鍋は洗剤を付けた程度ではコンディションは変化しない。そもそも黒錆びとは強靱な酸化鉄の皮膜であり、洗剤とは界面活性剤である。界面活性剤は酸化鉄の皮膜のさらに表面に残った油脂を洗い流しはするが、四酸化三鉄皮膜を侵すものではない。鉄鍋は基本的に四酸化三鉄皮膜によって保護されているのであって、表面に残留した油脂分によってではない。もちろん年に数回しか使用しないような場合、油を引くに越したことはないが、頻繁に使用する場合は黒錆びの皮膜だけで充分である。
長期の保管[編集]
年に数回のキャンプにしか使わない場合には、前述の通り植物油を薄く塗布してから鍋の中に新聞紙などを入れて内部に湿気が籠もらない様にして、風通しの良い場所に保管する。再使用する際には洗剤とスポンジあるいは亀の子たわしを用いて表面の油脂分を洗い流す。長期間鍋の表面にあった油は酸化してしまっており、生体に害をなす。
語源[編集]
ダッチオーブン、「オランダ人のオーブン」という語源には諸説あるが定かではない。主なものには、オランダ系移民が売り歩いていた鍋であったとする説、ダッチと呼ばれた人物が発明したとする説、オランダの鋳造技術を利用したためとする説などがある。またイギリス人は「~もどき」の品物を「ダッチ~」と呼ぶ習慣があるため、本物のオーブンではないがオーブンとして使える鍋を「オーブンもどき」すなわちダッチオーブンと呼んだという説もある
