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Posted by ミリタリーブログ  at 

2014年04月29日

Kar98k

Kar98k





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Karabiner 98 kurz (K98k)




Kar98k



概要



種類

軍用小銃



製造国

ドイツ
(チェコスロバキアやポーランドなど、一部占領国でも生産)



設計・製造

マウザー(モーゼル)社他、総計8社10工場



性能



口径

7.92mm



銃身長

600mm



ライフリング

4条、右回り



使用弾薬

7.92x57mmモーゼル弾



装弾数

5発



作動方式

ボルトアクション方式



全長

1,100mm



重量

3.9kg(単材銃床)
4.2kg(積層材銃床)



発射速度

発/分



銃口初速

760 m/s



有効射程

500 m


Karabiner 98 Kurz(カラビーナー・アハトウントノインツィヒ・クルツ, K98k, Kar98k)はドイツ帝国が1898年に制式採用した歩兵銃 Gewehr 98 から派生した騎兵銃型の一つであり、1935年6月に制式採用後、第二次世界大戦におけるドイツ軍の主力小銃として大いに活躍した、現在においても一部の国で使用されている傑作銃である。




目次
[非表示] 1 概要
2 系譜 2.1 Karabiner98a
2.2 Karabiner98b
2.3 モーゼル・スタンダードモデル1924
2.4 モーゼル・ドイツ郵政省用小銃

3 生産
4 Kar98kのバリエーション(派生型・類似型) 4.1 狙撃銃
4.2 チェコ製ライフル
4.3 FN モーゼル M1924
4.4 G40k
4.5 Volkskarabiner98(VK98)
4.6 その他試作型
4.7 民間向けライフル

5 登場作品 5.1 映画・テレビドラマ
5.2 漫画・アニメ
5.3 ゲーム
5.4 小説

6 参考文献


概要[編集]

Kar98kは通称であり、当時の軍マニュアル等によれば正式名称はKarabiner98kで、その略称はK98kである。Karabiner(カラビナー)は騎兵銃を意味し、98は母体となったGew98が制式採用された1898年を示している。末尾についているkはkurz(クルツ)、つまり短いを意味し、全体として「1898年式の短型騎兵銃」たるを示している。アメリカのカービン銃のカービンは、このライフルのカラビナーと同意である。騎兵は馬上射撃が求められるので、取回しのしやすさから短めの全長、また、背負った場合の安定性から負革が銃側面に存在すること等が、騎兵銃の形状の特徴となっている。これが転じて、後のドイツでは負革が銃側面に付く小銃をKarabinerと呼ぶことにもなっている。

口径は7.92mm、装弾数は5発のボルトアクション式ライフルである。制式採用時点で、アメリカ合衆国やソビエト連邦等では半自動小銃の実用化が進められており、既に旧式化しつつあったものの、命中精度や安全装置の設計に優れており、高い信頼性や生産性から1945年の終戦時まで生産が続けられた。その生産は、開発者であるモーゼル社の二つの工場の他、国内の複数の銃器メーカーはもちろんのこと、占領下の国外銃器工場まで動員して行われ、総生産数は1,400万丁を超える。

精度の高い個体は4~6倍程度の望遠照準鏡との組合せで狙撃銃としても威力を発揮し、戦争末期におけるドイツ狙撃兵は前進する連合国兵士の脅威となった。

系譜[編集]

Karabiner98a[編集]

Kar98a(Karabiner98a)は、Gew98の文字通りの騎兵銃型として1900年代初頭に採用された。銃身長が740mmであるGew98に対して、Kar98aは600mmでKar98kと同じであり、側面の負革や曲げられたボルトハンドル等、似た特徴もある一方、銃口近くから機関部薬室付近まで覆う木被(銃身覆い)や特徴的な叉銃用金具等、異なる点も多く有していた。





Kar98a
Karabiner98b[編集]

第一次世界大戦の敗戦と共にドイツにはヴェルサイユ条約により軍事的にも厳しい規制が課されることとなった。その下で新生ヴァイマル共和国陸軍(Reichsheer)は当初第一次世界大戦より残されたGew98を使用したが、1920年代初頭にいくつかの改良が加えられてKar98b(Karabiner98b)として採用されることとなった。Kar98bは銃身長がGew98と同じ740mmであったが、負革が側面に付けられたことからKarabinerと呼ばれた。またほとんどのKar98bは既存のGew98を改造したものであった。





Kar98b




Kar98kのボルトアクション部分
モーゼル・スタンダードモデル1924[編集]





Kar98k
第一次世界大戦後、世界の主力小銃の中心はそれまでの長銃身から短銃身へと移りつつあった。1920年代前半にはチェコスロバキアやベルギー等では短銃身のモーゼル式小銃を開発、多数を輸出するようになっていた。モーゼル社は、これに対抗すべく銃身長600mmのモーゼル・スタンダードモデル1924(Mauser Standard-Modell 1924)を開発した。本銃は、まさにGew98の短銃身版というもので、銃身長や改良された照門を除き、銃下側の負革や直線状のボルトハンドル等はGew98と同様であった。ヴェルサイユ条約の制約により、モーゼル社は本銃を未完成の部品として輸出し、スイスで組み立てを行った。

モーゼル・ドイツ郵政省用小銃[編集]

1933年、モーゼル社ではスタンダードモデルに更なる改良を施した。これが、社内記録に「ドイツ郵政省用小銃」(Gewehr für Deutsche Reichspost)として残るものである。本銃は、郵政省の財産を強盗や暴動から守るという名目で発注されたが、実質的にはドイツ再軍備への下準備に他ならなかった。その外見は、負革の固定金具の形状や機関部等の刻印が異なる以外はKar98kとほぼ同一であり、まさにその前身と言えるものであった。

生産[編集]





1944年フランスで撮影されたドイツ空軍の降下猟兵。小銃擲弾投射器付きのKar98kを持つ




A.Jackenkroll社製民間用Ajack4x90スコープ付Kar98k。ロシア戦線で撮影。
先述したとおりKar98kの制式採用は1935年6月で、6月21日発行の陸軍報(Allgemeine Heeresmitteilungen)に6月14日付け告示として記載されている。しかしながら実際の生産は、1934年に既に開始されている。そのメーカーはモーゼル社(Mauser Werke)の他、ザウエル社(JP Sauer und Sohn)の二社である。ただ、制式採用前のザウエル製Kar98kはバンド固定金具の形状が制式型と異なることが特徴となっている。その後製造メーカーの数は増え続け、途中製造を中止するメーカーもあったものの、1939年から1945年まで、総合計8社10工場においてKar98kの生産が行われた。その生産は、国内の他、オーストリアやチェコスロバキアにおいても行われた。

Kar98kの総生産数は、戦火や戦後の混乱で記録が失われていたり、また相互に矛盾する記録が存在することなどもあり、正確な数値は不明である。そのため、様々な推計値が存在するが、興味深いものとして米国のコレクターを中心に行われた、銃に刻印されたシリアルナンバー(一連番号)からの推計値がある。ドイツの小火器類は一定のルールに基づいてシリアルナンバーが刻印されている。現存するものについて、これをメーカーごとに詳細に記録し、集計することでその総数を推計する方法である。その結果によれば、Kar98kは1934年から1945年までで総数14,048,789丁生産されたとのことである。ただし、Kar98kはメーカー工場で生産された物だけがすべてではない。残されたGew98やKar98bの部品に新たにメーカー工場から供給された部品を組み合わせて各軍管区の兵站部等で製造された物も存在する。これらは上記数値には含まれていない可能性が高い。

Kar98kのボルトアクションメカニズムは、元祖のGew98時代から基本的に変わっていない。またその形態もKar98kとして採用された当初から終戦まで大きな変更はないが、戦火が激しくなるにつれて、当初は削り出し加工であった部品がプレス加工になる等、細かなバリエーションが存在する。また、1944年からはKriegsmodell(クリークスモデル)と呼ばれる戦時省力型の生産も開始されている。その一番の特徴は、着剣装置や銃床上のボルト分解用金具の廃止である。

Kar98kのバリエーション(派生型・類似型)[編集]

狙撃銃[編集]

狙撃銃として使用されたKar98kは、選抜された特に精度の高い個体が一部メーカーの工場または軍の兵站部において改造されたものである。これらには、多種多様な光学照準器(ライフルスコープ)及び装着器具(マウント)が使用されたが、特にスコープに着目すると次の3つに大別できる。
1.民間用スコープ 4倍率が主流であり、純粋な民間用生産品を転用したタイプと戦争後期に軍の仕様に基づいて生産されたタイプとがある。今日ではメーカーや型式、マウント種別に関わらずすべてZF39と呼称されることが多いが、これは不正確である。当時の軍資料によると、39型照準眼鏡ZF39(Zielfernrohr39)はカール・ツァイス社製の4倍率スコープであるツィールフィア(Zielvier)のみを指し、その他のスコープはツィールフィアも含めて市販照準眼鏡(handelsübliche Zielfernrohre)として一括りに総称されていた。

2.ZF41 41型照準眼鏡ZF41(Zielfernrohr41)は1.5倍率の小型スコープで接眼距離が長く、本来は通常の歩兵部隊の上級射手のために開発されたものであった。しかしながら実際には特殊任務に就く狙撃兵にも多数支給され、当然のことながらかなりの不評であった。それにもかかわらず、結局このタイプが最も多く生産され、使用された狙撃銃となっている。

3.GwZF4(ZFK43) 4倍率小銃用照準眼鏡GwZF4(Gewehr Zielfernrohr 4fach)は半自動小銃Gew43用に開発、制式採用されたもので、1944年にGew43がKar43と改称された後にこれもK43型照準眼鏡ZFK43(ZielfernrohrK43)と改称されている。戦争末期に軍はライフルスコープの生産拡大のために仕様の標準化を図り、その一環としてKar98kにもGwZF4を装着することが検討された。このタイプはほとんど現存しないことから、試作のみに留まったか、ごく少数の試験使用に限られたものと思われる。


チェコ製ライフル[編集]

チェコスロバキアのブルノ社(ドイツ名Waffenwerke Brünn)では、戦前からモーゼル式小銃Vz24やその短銃身型のVz33等を製造していたが、ドイツによる占領と共にそれらは細部をKar98kに類似させたドイツ型に修正して製造されるようになり、それぞれG24(t)、G33/40と呼称された。特にG33/40は山岳部隊仕様とされたが、いずれも1943年以降はKar98kの生産に一本化されることとなった。

FN モーゼル M1924[編集]

第一次世界大戦後、ベルギーのFN社でGew98を改良し生産したモーゼル式小銃。中南米諸国や中華民国などに輸出された。

G40k[編集]

1942年に軍はKar98kを更に短銃身としたG40kという新型小銃の試作命令を出した。その銃身長は490mm、全長は995mmであったが、ほどなく計画は断念され、28丁が試作されるに留まった。

Volkskarabiner98(VK98)[編集]

Kar98kの簡易戦時生産型で、大戦末期に中高齢者や少年によって編成された国民突撃隊の装備として作られたものである。ナチス党行政側の要請で、武器を確保するためにkar98kを生産していた工場から、在庫部品を民間へと下げ、そこで製作された。そのため、生産ラインや工場によりさまざまなタイプが存在し、従来のKar98kと同じように5発の弾倉を持つものと、単発式のもの、拳銃式のサイトから本来のサイトなどかなりの差異が見られたという。

(単発型諸元) 口径:7.92 mm 全長:1,031 mm 銃身長:528 mm 重量3.13 kg 初速:731 m/s

その他試作型[編集]
降下猟兵(空挺部隊)等における携行性の向上のため、蝶番による折り畳み銃床式のKar98kやG33/40。また、銃身と機関部の分離式のKar98kも試作。日本陸軍の試製一〇〇式小銃、試製一式小銃、二式小銃開発の参考になった。
MP43で使用された7.92×33mmクルツ(短薬莢)弾を使用するKar98k。
プラスチック銃床付きKar98k。

民間向けライフル[編集]

2009年現在、モーゼル社は民間向けにGew98/Kar98kアクションを忠実に再現した狩猟用ライフル「モーゼルM98ライフル」を販売しており、日本国内でもライフル銃として所持をする事が可能となっている。

また、中国の中国北方工業公司はKar98kを模した狩猟用ライフルをJW-25Aの製品名で製造している。ただし、Kar98kよりも全長が100mmほど短く、伴って銃身長も70mmほど短くなっている。また、使用弾薬は低威力な.22LR弾であり、装弾にはクリップではなく10発ないし5発装填の箱型マガジンを用いる。

登場作品[編集]

ドイツ軍の制式小銃だった為、第2次世界大戦を題材にしたものやドイツ軍が登場する作品に多く登場する。また第一次世界大戦を題材にした作品においても、Gew98の小道具の代用に用いられることもある。

映画・テレビドラマ[編集]
Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!
インディ・ジョーンズシリーズ
レイダース/失われたアーク《聖櫃》とインディ・ジョーンズ/最後の聖戦にてドイツ軍兵士が使用。 X-メン
ウルヴァリン: X-MEN ZERO
ウルフェンシュタイン
エアリフト
グラインドハウス
ナチ親衛隊の狼女に登場。 紅の豚
コンバット!
ドイツ軍兵士が使用。 人狼 JIN-ROH
擲弾発射機を付けて、グレネードランチャーとして使われた。 スターリングラード
エルヴィン・ケーニッヒが使用。 スパイ・ゾルゲ
戦争の犬たち
ザンガロ政府軍兵士が使用。 ハウルの動く城
王国兵士が使用。(Gewehr98) バンド・オブ・ブラザース
ドイツ軍兵士が使用。 ヒトラー 〜最期の12日間〜
ドイツ軍兵士が使用。 プライベート・ライアン
ドイツ軍兵士が使用。 ヘルボーイ
ライラの冒険 黄金の羅針盤
ワルキューレ
タイム・ジャンパー
バルトの楽園
ドイツ国内の場面でGewehr98が、チンタオ攻防戦の場面ではKar98kが登場。ただし後者は時代が合わない。 勝利への脱出
ドイツ軍兵士がスコープなしのものを装備。 沈黙の逆襲

漫画・アニメ[編集]
軍靴のバルツァー
ヴァイセン陸軍の装備。作中では連発式ではなく単発式である。また、金属製薬莢ではなく紙製の弾薬を使用している。 ココロ図書館
人類は衰退しました
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
逮捕しちゃうぞ the MOVIE
BLACK LAGOON
HELLSING
ミレニアム大隊が使用。 マスターキートン
最終回でルーマニアの村に残されていたものをキートン達が使用。 迷彩君
ヒストリカルゲームで登場。 ウォースパイト〜マルスの目〜

ゲーム[編集]
Alliance of Valiant Arms
カプセル商店で販売。スナイパーのメイン武器であるが、 現在はモシン・ナガンが実装されたため使用している人は少ない。 Wolfensteinシリーズ
コール オブ デューティシリーズ
バトルフィールド1942
ブラザー イン アームズシリーズ
メダル・オブ・オナーシリーズ
メタルスラッグ
オペレーション・ダークネス
戦場のカルマ
Men of War: Assault Squad

小説[編集]
旭日の艦隊
ドイツ兵が使用。 紺碧の艦隊
ドイツ兵が使用。 新・旭日の艦隊
ドイツ兵が使用。 新・紺碧の艦隊
ドイツ兵が使用。 鼠たちの戦争
ハインツ・トルヴァルトが使用。 蘇える金狼
怪盗クイーン、仮面舞踏会にて
ゲルブがジョーカーを狙撃するため使用(架空の「Kar98改」という名前で登場) 怪盗クイーンに月の砂漠を
ゲルブがピラミッドと逆ピラミッドの接点を狙撃するため使用(架空の「Kar98改弐式」という名前で登場)
参考文献[編集]
Law,Richard D,BACKBONE of the WEHRMACHT The GERMAN K98k RIFLE 1934-1945, Collector Grade Publications, Inc, 1993
Law,Richard D,Sniper Variations of the German K98k Rifle, Collector Grade Publications, Inc, 1996
Walter,John,THE GERMAN RIFLE, Arms and Armour Press, 1979
  


Posted by テキサスビル  at 15:26Comments(0)

2014年04月28日

ウエスタンブランドRockmount ロックマウントとジャステインローバーブーツ

私のお気に入りのブーツは、ジャスティン社のローバーブーツだ、そしてシャツはウエスタンブランドRockmount ロックマウントをお気にいりしている。
 とにかくこの二つに共通しているのは、すごくタフなっくりをしている。

この点はまだ、本場のものに日本製などでは、ついていけないのかもしれない、リアルカウボーイのコメントをきいてみたいものだ。 長い間に、自然に
この型にできあがってきたのかもしれない。
  


Posted by テキサスビル  at 15:43Comments(0)

2014年04月27日

コルトM1877(ライトニング)

稲妻と雷鳴と共に

このコルトブランドの最初のダブルアクションリボルバーは、シングルアクションリボルバーの影に隠れているが、豊かな歴史とバリエーションを持つ。
 
多くの有名な人物の最後の言葉は知られているが、他の著名人のそれは、最後の喘鳴にまじって発せられるのがただぼんやりと感じることができるだけである。例えば、1862年に48年の短い、しかし波乱に富んだ人生の後に死んだリボルバー製造業主、サミュエル コルト大佐の場合である。「ともかくダブルアクションは止めておけ。」 彼は死の直前にそうつぶやくことができた。というのは、彼はダブルアクションを装備したリボルバーを一生の間不利としか見ていなかったのである。それは特にこの領域における彼自身の実験が不満足に経過していたからである。個人的なフラストレーションがあり、技術的な失敗作が生まれ、この工場設立者の裁定は彼の社内に雷鳴のようにこだました。ヨーロッパの努力家がすでに長年ダブルアクショントリガーを改良しており、モダンなダブルアクションシステムの基盤が作られていたにもかかわらず(囲み記事参照)、コルトの工場は1877年になって初めてダブルアクション機能原理を持つ自社製リボルバーを発表した。…コルト大佐の死から15年後のことであった。

 この新製品はモデル1877という名称を得たが、その履歴はおそらくより早くからすでに始まっていた。この件に関し、ドイツ人コレクターでありM1877ファンのUwe Dorfleino」はウムラウト)はアメリカのコルト専門家Don Wilkersonの注意を受けてこう述べている。「本当に1877なのか? 21挺からなる最初の供給品は1877年1月1日にロンドンに向かった。つまりこのモデルはすでに1876年に開発され、製造されていたのだ。」 

隆起つきのバーズヘッド
 M1877は、それまでに作られた全てのコルトリボルバーと、そのトリガーメカニズムによってのみ異るわけではなく、グリップ形状によっても異る。というのは、コルトはその回転ピストル(注:「Drehpistolen」。リボルバーは狭義にはピストルに含まれないとされますが、厳密好きのドイツ人もときどきこの言葉を使っています)に40年にわたって丸く弧を描くグリップ後部を備えてきたからである(注:ストレートに訳そうとするとこうなりますが、これでは分かりませんよね。要するにSAAのようなグリップ形状のことです)。それに対しM1877はバーズヘッド(注:「Vogelkopf」。そのまんまです)グリップつきで登場し、その上部には特徴的な突出部があった。これ注:グリップ形状)を度外視すれば、6連発銃であるM1877は本質的には当時のアメリカ軍制式拳銃である、ピースメーカーとして知られる.45口径コルトM1873シングルアクションアーミーの縮小版であるかのような印象を与える。すなわち、例えばM1877の場合もSAAにならってシリンダーのチャンバーにローディングゲートから装填ができる。そしてこれにより、M1873の購入者は慣れる必要がない。M1877リボルバーの一部にも、同様にバレル右にエジェクターが、それに属するケースごとあるからである。

 もっとも、全てにあるわけではない(注:コルト)は、そのダブルアクションの初物に際し、英語では「エジェクターロッド」として知られるAusstosserを、そのリボルバーがショートバレルのときには断念していた。

バリエーション続々
 コルトの専門家R.L.Wilsonによれば、コルトはM1877を1.5~10インチまでの13の銃身長で製造した(1インチは2.54cm)。これでは充分でない。コルトはこのリボルバーを銃身長領域4.5、5と3/8、6インチではあるものはエジェクターつき、またあるものはなしで製造した(頑住吉注:後に改造されたものはともかく、製造時点では4.5インチより短い銃身を持つものには全てエジェクターはなく、6インチより長い銃身を持つものには全てエジェクターがあったということでしょうね)。そしていくつもの弾薬仕様があった。大部分は.38ロング、ショートコルト、および.41ロング、ショートコルト仕様で登場した。約200挺の.32、一点もののような.38-40ウィンチェスターおよび.38S&W仕様の両銃はレア品目に該当する。専門取扱い商であるオハイオ州のKittredgeのような会社はM1877に通称を当てはめている。すなわち、.38口径を「ライトニング」(稲妻)と言い、.41口径を「サンダラー」(雷を鳴らすもの)と言っている。だが、アメリカの専門文献が示すように、例えばR.L.WilsonやNorm Flaydermanは今日、「ライトニング モデル オブ 1877」のような名称をシリーズ全体の上位概念として使用している。

 この銃の多様性を口径および銃身長によって(注:のみ)分類する人は正しくない。差は仕上げ、サイト、グリップ、刻印にも指摘される。コルトライトニングおよびサンダラーは工場をスタンダードにはブルーおよびケースハードゥンで去った。在庫にはニッケルメッキがあったし、固定注文によって金および銀メッキも購入できた。初期のみ(大体1880~81年まで)バレルのマズル上に洋銀(注:銀の代用となる銅、亜鉛、ニッケルの合金)製フロントサイトが鎮座した銃が生じた。以後はスチール製である。Uwe Dorfleinのような専門家たちは、グリップの違いについて知っている。いわく、「一番最初は粗いチェッカリングのあるワンピースのローズウッドグリップだった。直後に細かいチェッカリングのあるワンピースのローズウッドグリップと、ワンピースの(非常にレアな)グタペルカ(ハードラバー様の)製が登場した。1880年以後はツーピースのグタペルカグリップがスタンダードとして使われた。」 コルトは当然デラックス品にはスムーズまたは彫刻を施した象牙またはパール製グリップも装着した。

刻印
 刻印に取り組む人は、この主題に本格的に深く参入しなくてはならない。
●例えばフレームの刻印。全てのライトニングとサンダラーには3行のパテント日付表示がある。ただし、1892年以後に製造されたものにのみ、その後ろに円の中に刻印された会社のエンブレム、「ランパンコルト」がある。つまり棒立ちになった子馬である。
●例えば口径の表示。一行の「COLT D.A. 41」または「COLT D.A. 38」という形でバレル左に目立つように示されている。Uwe Dorfleinいわく、「このマーキングは1877年からおよそ1889~91年ごろまではエッチングで行われ、その後は刻印として行われた。この移行ははっきりしておらず、シリアルナンバー領域72000~80000の間に実施された。」 
●そして例えばバレルのアドレス。コルト工場はバレル上部に常に2行の会社の住所、「COLT‘S Pt. F.A. MFG.Co./HARTFORD.CT.U.S.A.」を刻印していた。ただしその長さはバレルの長さによって決まっていた。3.5インチ以上では刻印の長さは1と1/16インチとなり、これに対しより短いものは3/4インチしかなかった。

 ちなみにこの短い刻印はイギリス向けに供給された銃身長3.5インチ未満のコルトM1877にも見られる。長い銃はアドレスの追加「DEPOT 14.PALL MALL LONDON」を持つ。

 こうした多様性を見れば、コレクターが時として一生涯このリボルバーに取り組むのも驚くには当たらない。これは例えばジョージア出身の薬剤師であるBo Harperにあてはまる。彼は150挺以上のライトニングおよびサンダラーを、それに属する紙箱ごとコレクションした。そしてそれでもなお1あるいはそれ以上の銃が欠けていた注:バリエーションのうち集めきれていないものがある、ということのようです)

金の話をしよう
 その忠実なファンにもかかわらず、コレクターズアイテムとしてのM1877は決して本当にはコルトシングルアクションバリエーションの影から脱することができない。このことはスタンダードバージョンの価格を一瞥すれば示される。例えば最高度に維持された初期のM1873シングルアクションアーミー、別名ピースメーカーは45000~60000ドルもする。完全にサビを磨き落とした、そしてガタの来たピースメーカーでさえしばしば2000ユーロを越える。これに対し、スタンダードなコルトM1877の事情を見れば、状況はずっといい結果になる(頑住吉注:安いということです)。すなわち、最高度に維持された銃でも2500~4000ユーロですでに買えるし、明らかに使い古された銃なら当然さらに安くなる(頑住吉注:2005年5月4日のレートで換算すると、「45000~60000ドル」は約34960~46614ユーロとなりました)。

コルトの失敗作?
 この価格の差には明白な理由がある。コルトM1877には技術的に「誤った開発」というイメージが伴っている。事実、多くの銃にはメカニズムに故障や作動不良がある。作動という点では、コルトのほぼ全てのシングルアクションリボルバーには、かろうじて入手できるオリジナルも含めてほとんど問題はない。非常に多くが最後に製造されたM1877系よりも50年も古いものであるにもかかわらずである。それゆえ、ライトニングのレプリカも存在しない。ただしウベルティのような会社は、すでにショートバレルのピースメーカーコピーに、M1877に特徴的なバードヘッドグリップをつけている。これは19世紀には存在しなかったものである。

 もっとも、M1877のメカニズムはしばしば主張されるほど不安定であるとは言えない。さもなければコルトはこのリボルバーをただちにマーケットから引っ込めていただろう。そうする代わりにこの銃の生産は1909年まで続き、166849挺という相当な数が世に出た。シングルアクションアーミーは匹敵する期間に261000挺がコルトの工場を離れた。

 その上、M1877の開発された時代にはこの作動原理はもはや新しいものではなかった。コルトの専門家R.L.Wilsonが詳述しているように、当時DAシステムはとっくに皆に知られた共有財産だった。このことは、M1877を担当したコルトの技術者William MasonがこのDAメカニズムをめぐってパテントを取得していないという事実が証明している。この銃に刻印されているパテント日付は主としてローディングゲートのフタとエジェクターをめぐる技術的特徴に関係するものである。アメリカン エキスプレス カンパニーが1200挺以上のM1877リボルバーを入手したことも、この銃の品質を物語っている。コレクターはこれをグリップ後部の刻印「AM.EX.CO.」で見分けている(注:ちょっと驚いて調べてみたんですが、公式サイトによるとこの会社は1850年にニューヨークで創業したそうです。多額の現金を扱う会社だから自衛のための即応性の高いハンドガンが多数必要だったということでしょうか)。その上、この銃は多数がメキシコの役所に送られた。バレルの文字列「POLICIA DEL DISTRITO FEDERAL MINISTERIO DE GOBERNACION」が示すようにである。当然、このダブルアクションコルトM1877はしばしば稲妻を走らせ、雷鳴を轟かせもした(:ライトニング、サンダラーという名称にひっかけた表現ですが、要するに実戦で頻繁に使用もされた、したがって故障ばかりでどうにもならなかったということはないはずだ、ということです)。

ワイルドウェストにて
 開拓民の民話の中で「クイーン オブ ザ バンディッツ」として知られるMyra Belle Starrは1880年代の初頭に、彼の銃とともに1枚の写真に撮られているが、彼女は3.5インチ銃身つきコルトライトニングも持って写っている(注:私はこの人知らなかったんですが、検索してみると非常に有名な人みたいです。不鮮明でよく分かりませんがここの写真のことでしょうか。 http://www.panhistoria.com/Stacks/Novels/Character_Homes/home.php?CharID=5361)。

 ほぼ同じ頃ニューメキシコで1人の若者が死んだ。彼の名はHenry McCarty、またの名をWilliam Bonney、またの名をKid Antrim、またの名をビリー ザ キッドと言った。保安官パトリック フロイド 「パット」 ギャレットがニューメキシコのLatinosで「El Chivato」として知られるこの追いはぎをFort Summerで射殺したとき、キッドの手には.41口径のサンダラーが見つかった。ちなみに、ギャレットも1挺のM1877を所有していた。キッドの死からまる20年後、彼は租税徴収者としてエルパソに赴いた。この機会にニューメキシコ出身の友人が彼に、純銀製グリップが付属した、エングレーブ、金メッキされた銃をプレゼントしたのである。

 ビリー ザ キッド自身が持っていたコルトサンダラーも貴重なものになることになった。長年カンサス州BerryvilleのSander‘sミュージアムには、1挺の3インチバレルを装備したエジェクターなしのM1877が収められていて、そのアイボリーグリップには「Billy」の名が彫刻されているのが見られた。この銃が本当にキッドの持ち物だったのかは、たぶんManituのみが知っている:この単語は辞書に載っていませんが、検索したところネイティブアメリカンの言葉で「神の住むところ」という意味のようです。普通ならドイツ人だってそんなの知らんだろうと思いますが、どうもこの言葉をタイトルにした映画がドイツで大ヒットしており、説明不要ということらしいです。要するに「神のみぞ知る」ということですね)。少なくとも、ビリー ザ キッドがコルト初のダブルアクションリボルバーを愛用していたことはハリウッドまで広まった。そして1988年、映画「Young Guns」で、映画用レンタル銃に特殊化した会社Stembridge Gun Rentalsの小道具係は、キッドを演じた俳優エミリオ エステべス用に多数のオリジナルコルトM1877を用意した。その中には1挺の6インチバレル、エジェクター、ハードラバーグリップの付属したサンダラーがあった。

 次に有名なコルト初のDAシリーズのファンは、Frederic Remingtonという。Desperado(注:響きはスペイン語っぽいですが、ドイツ語の辞書にも「無法者」という意味が載っていました)ではなく、1900年頃のアメリカで最も有名なカウボーイや騎兵をテーマとした画家である。レミントンは若い頃長期間にわたって西部で可能な限り全ての職業についた。そのとき彼はこの小型のコルトに対する愛好をも高め、多くの油絵やデッサンにおいて牧人やスカウトのホルスターに収めていた。そしてR.L.Wilsonが発見したように、彼は1895年3月にシリアルナンバー98951を持つ1挺のサンダラーを入手した(注:検索したところ、この人は1861年生まれ、1909年没ということです。M1877生産中止と同じ年にかなり若くして死んでます)。

 当時、「ピストル名士」の中の最大のM1877ファンの人生は終わりに傾いていた。これはワイルドウェストで最も戦慄すべき記録を樹立した人物、テキサス人John Wesley 「Wes」 Hardinのことである。ギャング史によれば彼の道は44の死体によって舗装されていた(注:変な言い回しですが、要するに生涯ガンファイトで44人殺したということでしょう)。「メキシコ人とインディアンは計算に入れていない」 1895年、背後から発射された1発の.45口径弾がこの大きなゲームを終わらせるまでに。このメソジスト説教者の息子はリッチにデコレーションされたリボルバーを好んだが、その中には1挺のM1877ライトニングもあった。弁護士として働いていたHardinは、彼の親類である「Killin Jim」として悪名高いJames Millerを裁判の際に弁護した後でこの.38口径リボルバーを手に入れた。Millerが敗訴したにもかかわらず。それでも彼はHardinに高価な時計と、エングレーブされ、パールグリップの付属したライトニングをプレゼントした。彼がほんの2、3ヵ月後に裁判の相手を散弾銃で射殺する前にである。

ガンマンのための3挺のコルト
 ただし、シリアルナンバー84304のついたHardinのこのライトニングは、彼の持つ1877系シリーズのうちの1挺のリボルバーにすぎなかった。彼はその上2挺のニッケルメッキされた.41口径サンダラーを持っていた。シリアルナンバーはそれぞれ68837、73728だった。前者はアイボリーグリップと4.5インチバレルつきで、後者は5インチバレル、パールグリップつきでエングレーブが施されていた。ちなみに前者はカリフォルニア州のGene Autry Western Heritage博物館に、同様にHardinが所持していたコルトピースメーカーとともに収容されている。もっとも、Hardinはこれらで長いこと楽しんだわけではない。このことは伝記作家Robert McNellisによってまる30年前に確認されている。すなわち、彼の調査によれば、コルトは1889年にこのエングレーブが施されたサンダラーを、14のいろいろなリボルバーとともに、テキサスのエルパソに所在する銃器商Ketelson&Digetauに送っている。ここからこの6連発銃はArthur R. Kline& Co.社に引き渡され、1895年にHardinに販売された(頑住吉注:約6年も売れなかったというわけでしょうね)。そしてこの翌月、エルパソのゲームサロンでダイス遊びをしていたとき、いかさまをされていると感じ、彼はこのサンダラーをさっと抜き、ポットから金を取った。直後にHardinは警察官William TenEyckに直面し、この銃は押収され、そして後にゲームサロンのオーナーに売却された(注:要するにこの銃は1ヶ月かそこらしかHardinの手元にはなかったということです)。

 だが、Wes HardinはこのDAコルトをいかがわしい場面のみに使用したわけではない。ワイルドウェストの専門家Phil Spangenbergerは、彼がこの銃を使って曲芸をすることを好んだということを突き止めた。彼はこのコルトを、グリップを下にしてズボンのポケットに突っ込み、バレルが上にのぞいて見えるようにした。彼は足を開いて立ち、マズルをつかんでこのリボルバーを引き抜き、空中で回転させ、グリップを受け止め、発射した。Hardinはこれで命中させることもできることを、何歩も離れたポーカーカードに穴を開けることで証明した。これにサインしてファンに差し出すために。

いつかこれを撃てるか?
 正常化したメカニズムと、妥当な試射を前提として、サンダラーまたはライトニングからいくらかの黒色火薬による稲妻を走らせることに反対はしない。しかしアメリカのウェスタン銃器の専門家、Mike Venturinoはこれに関し、この銃は「ヒールタイプ弾」を使った弾薬用に設計されているということを指摘している。すなわち、ひっこめられたかかと部によって薬莢に差し込まれており、一方その上にある弾頭部の直径は、たいてい薬莢の口より大きい結果になるということだ。それに対し、今日の弾丸の場合は外径は常に薬莢のそれより小さい注:要するにこういうことです。

左がライトニングの弾薬で、右が通常の弾薬です)。Venturinoいわく、「.38口径コルトの額面上のライフリングの山部の直径は.357インチ、.41口径コルトのそれは.403インチである」。今日.38口径弾薬用に普通である直径.358インチの弾丸は、ライトニングのバレル内によりどころを見つけない。というのは、このバレルは後部が大きく中空になった柔らかい鉛弾用だからである。すなわち、バレル内のガス圧によって広がり、弾丸の誘導を引き起こすようになっている(注:いまいち分かりにくいんですが、この銃の「額面上のライフリングの山部の直径」は.357で、現在普通に使われている.38口径弾は.358なのでギリギリライフリングにかむように思われるが、実はバレル内径は拡張する弾丸用に少し広くなっているのでかまない、ということでしょうか)。当然、祖先のスタイルで自分で鋳造した「ヒールタイプ弾」でも成功する。

 そしてアメリカの専門家たちのレポートを信じるなら、良好なM1877の射撃フィーリングを表現するための言葉は一言だそうである。すなわち、「Fun」。

トリガーをめぐって(囲み記事)
 サミュエル コルトは彼のリボルバーを常にシングルアクション原理でセッティングした。だからトリガーは1つだけの使命を持った。すなわち、発射を引き起こすことである。一方シリンダーは親指がハンマーを起こしたときに回転した。こうしたセパレートの動きのため、ドイツ語圏の専門家たちはシングルアクションリボルバーを「Hahnspanner」(と言う。これはシリンダーの回転からハンマーのコックを経て発射を引き起こすことまで全てを処理する。この原理は19世紀半ばには非常によく知られていた。アメリカのEthan Allen、ベルギーのA.Mariette(頑住吉注:アメリカ・イギリス系とベルギー・フランス系、ペッパーボックスの代表2機種を作った2人です)、イギリスのCharles LancasterとRobert Adams(注:後者は初期コルトリボルバーの強敵となり、イギリスでは勝利したアダムスリボルバーを作った人ですが、前者は知らなかったので検索してみました。こんなのを作った人らしいです。 http://www.horstheld.com/0-makers-L.htm )のような設計者たちはこれをペッパーボックスあるいは通常リボルバー用に使用した。アダムスは彼の銃に装備したこの発火機構を「セルフコッキング ロック」と言った。だが、コルトは1842年および1858年における多くの実験の後、セルフコッカーを却下した。彼はその理由をすでに1851年にロンドンで、技術者の団体「Institution of Civil Engineers」を前にした講演で解説していた。コルトによればハンマーコッカー注:セーフティコック)がなく、1発の発射を起こさせるためにはハンマーへの一撃で足りる。だが1855年、イギリスのFrederick Beaumont中尉がその両方の欠陥を、複数のレストを持つ安定したコックトリガーによって取り除いた。すなわち、この銃はコルト風に手動コックすることもできるようになり、この結果2つのトリガー方式の選択を提供した。これによりBeaumontはモダンなダブルアクションリボルバー発火方式の先駆者となり、後にベルギーのJules Chaineux、フランスのJean ChamelotおよびHenri-Gustave Delvigne、スイスのRudolf Schmidtによって改良された。


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 天才というものは、偉大な発明を成し遂げる一方自信過剰で他人の発明した優れたものを取り入れることを頑なに嫌う一面を持つことが往々にしてあるようです。他のアメリカの歴史的大発明家の例を挙げるなら、例えばエジソンが頑なに交流電流を危険なものとして嫌い、攻撃したこと、ライト兄弟がオリジナルな航空機の構造にこだわりすぎたため基本形以上の傑作をその後作ることができずに結局時代に取り残されたことなどの事実があります。同様に、現代リボルバーの基礎を築いたコルトの業績は実に偉大なものですが、人格や手法にやや問題があったのも事実のようです。

 コルトが初めてリボルバーを発売したのは1836年のことであり、一方「Visier」の記事でも例に挙げられているイーサン・アレンはその翌年にはダブルアクションメカのパテントを取得し、ダブルアクションペッパーボックス(多銃身回転式拳銃)を発売しています。コルトリボルバーは初期には非常に高価だったこともあって普及するのに時間を要しました。一方アレンのペッパーボックスは安価であることを最大の武器にして初期コルトリボルバーの最強のライバルとなり、少なくとも発売から10年以上にわたってコルトリボルバーよりはるかに有名で、人気があり、商業的に成功していました。したがってダブルアクション回転式拳銃自体はM1877発売のはるかに前から周知のものだったわけです。またイギリスではアダムスのダブルアクションパーカッションリボルバーがコルトとの競争に勝利したことが示すように、ヨーロッパではダブルアクションが主流でさえありました。コルトはアレンやアダムスとの激しい戦いの中でシングルアクションリボルバーに磨きをかけ、言うまでもなく後には高い評価を得ています。当時のコルトリボルバーと大筋同じ構造の銃器は現在でも生産され、実戦目的にではないものの多くの銃器愛好家に求められています。コルトが後の銃器発達史に与えた影響は明らかにアレンやアダムスのそれよりはるかに大きなものです。コルトの道は決して大きく間違ってはいませんでしたが、彼らへの敵対心からダブルアクションを必要以上に嫌った彼の態度は社のため、また銃器の進歩のためにプラスにはならなかったと考えられます。

 M1877は1876年、当時コルト社の設計スタッフの中心人物だったWilliam Masonが開発したもので、偉大な創業者コルトの「ともかくダブルアクションは止めておけ」という遺言は15年も社を縛り続けたことになります。この銃のダブルアクションメカは、現在では一部の低価格製品などに残存しているだけですが当時はむしろ主流だった、トリガーに可動パーツが付属し、これがハンマーを押し上げてコックするものでした。言うまでもありませんが現在ではトリガーがハンマーに付属した可動パーツを押し上げるメカが主流です。ちなみにアダムスリボルバーは前者であり、アレンのペッパーボックスはレイアウトは大きく異なるものの後者に近いものでした。「Visier」はM1877のメカが、「確かに問題があったものの言われるほどではない」、とする論拠の1つとして、「当時ダブルアクションはすでにプルーフされた存在だった」ことを挙げていますが、私はこれはおかしいと思います。M1877のメカニズム上の問題はダブルアクションメカニズムそのものにあるのではないと考えられるからです。

 M1877の他のリボルバーと最も異なる特徴は、シリンダーストップのデザインです。言うまでもなく通常のリボルバーにはシリンダー側面にノッチがあり、ここにシリンダーストップがはまってシリンダーを止めるようになっています。これは他ならぬコルトによるデザインであり、M1877以外の全てのコルトリボルバーはこうなっているはずです。コルト以外でもシリンダー側面にノッチを持たないリボルバーはM1877以外にはウェブリー・フォースベリーやモーゼル1878などジグザグミゾによってシリンダーを回転させ、同じミゾによって停止もさせるリボルバーくらいでしょう。ところがWilliam Masonは何を考えたかノッチをシリンダー後部に設けました。

 シリンダー後部にノッチを設けること自体は新しい発想ではありません。リボルバーでこそ珍しいものの、アレンのペッパーボックスがそういう構造だったように、これはペッパーボックスにおいては珍しい方法ではなく、信頼性にも大きな問題はなかったようです。ただし、これをメタリックカートリッジ式リボルバーに応用した場合、大きな問題が生じました。

 M1877のシリンダーは、リム部がシリンダー内に収まるカウンターボアードにはなっていません。シリンダーストップはリムの厚み分大きく前進しないとシリンダーに到達できないだけでなく、前進が早すぎるとシリンダーストップがリムに当たってシリンダーを止めてしまい、また前の弾薬のリムがある間は前進できず、過ぎたら間髪いれずに前進しないとシリンダーを止めそこなうというものになってしまいました。



 単純化してイラストにするとこんな感じです。青がシリンダー、黄色がリム、空色がフレーム、赤がシリンダーストップです。どう考えてもやや無理のある方法という気がします。現存する多くの銃が作動不良を抱えているというのはここに原因があると考えられます。「COLT FIREARMS」(James E.Serven著・アメリカ)という参考資料は、この銃に関するコメントとして、「(このシステムは)シリンダー回転の自由度がより高く、ハンドの耐久性は進歩していると主張した。これはこの有利さを持つ唯一のリボルバーであることを意味した。しかしこのリボルバーはメカニズム的に理想からは程遠かった。このコルトのうち1挺を手にした人は誰でも、メカニズムが複雑すぎ、調整がデリケートすぎると公言するだろう。」旨記述しています。また、「The Gun Digest Book of FIREARMS ASSEMBLY/DISASSEMBLY PartⅡ:Revolvers 2nd Edition」(J.B.Wood著・アメリカ)という参考資料には、「このリボルバーは、おそらくかつて案出された中で最悪のダブルアクションリボルバーであるといういかがわしい勲章を与えられている。正しく作動している『ライトニング』は稀な例外である」としています。当時はともかく、長い年月が経過したM1877はまともに動かないものが多いということです。このシステムがダメだったことは、この1作のみで放棄されたことが証明していると言えるでしょう。

 前掲の「COLT FIREARMS」によれば、この銃は1877年1月1日に初めてコルト社による広告が行われたとされ、「Visier」の記述とも合わせ、1876年のうちには開発が終了し、生産も始まっていたと考えられます。「Visier」の記述のように、生産された総数は166849挺にもなり、これは同時期に生産されたSAAの6割以上の数ですから、意外なほど両者の数には差がなかったことになります。まともに動かないものが多く(今動いていてもいつ動かなくなるか不安)、イメージが悪い上、なまじ多数が生産されたため、コレクターズアイテムとしての価値が低いわけです。メカニズムに問題があるからこそ実銃レプリカもかつて生産されたことがない、

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 これは製品に付属した内容ほぼそのままですが、その後判明したことなどを追加しておきます。

 まず、このシステムを使用していたのはM1877だけとしましたが、M1878も基本的に同一のメカだったようです。ただ、この銃に関しては詳しい史料が少なく、不明の点が多く残っています。ちなみに不充分ながら「知識の断片」コーナーの「コルトM1878シェリフスモデル」の項目にも情報があります。

 私は当時コルトによる後のリボルバーに与えた影響をやや過大評価していたようです。「知識の断片」コーナーの「Faustfeuerwaffen」のうち「ハンマーに関節結合されたダブルアクションシアを持つダブルアクション銃の発達」の項目にあるように、現代リボルバーのトリガーメカニズムのルーツは明らかにベルギー製ピンファイアリボルバーにあり、これはM1877よりはるかに古いものです。M1877のメカは他社に遅れてダブルアクションリボルバーを世に出すにあたって独自色を盛り込んだが失敗し、放棄されただけのものととらえるべきもののようです。

  


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2014年04月22日

ワイアット・アープ

ワイアット・ベリー・スタップ・アープ(Wyatt Berry Stapp Earp、1848年3月19日 - 1929年1月13日)は、アメリカ西部開拓時代の保安官。




目次
[非表示] 1 生涯
2 OK牧場の決闘
3 ワイアット・アープを主人公とした作品 3.1 映画
3.2 TV映画

4 関連項目


生涯[編集]

イリノイ州生まれ。20歳のころバッファロー狩りで生計を立てガンマンとして有名になった。1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年にはカンザス州ウィチタの保安官事務所で働いていたが、1876年4月、仲間と口論して解雇された。1878年、やはりカンザス州のフォード郡ドッジシティで新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安官チャールズ・バセットの下で保安官助手に任命された。

1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、アリゾナ州のトゥームストーンに移り住み農業のかたわら賭博場の胴元、売春宿の経営者になった。3か月後、兄のヴァージル・アープがトゥームストーンの保安官に就任した。

1881年、アープ兄弟はクラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達と、「OK牧場の決闘」と呼ばれる事件を起こす。(詳細については、下記を参照のこと)

晩年ロサンゼルスに定住し西部開拓時代の伝説的な生き証人となり、親交を持った映画監督のジョン・フォードの西部劇製作に影響を与えた。

1929年1月13日、ロサンゼルスにて膀胱炎で死去。80歳。

ワイアット・アープは、映画などでバントライン・スペシャルと呼ばれる拳銃(作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、コルト・シングル・アクション・アーミーの銃身が非常に長い特注モデル)を使っている場合がある。しかしこれは伝説で、本当に使っていたかどうかは定かではない。

OK牧場の決闘[編集]

1881年、アープ兄弟は、クラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達(牛泥棒などの不法行為をもっぱらとしていた)と対立を深めていた。

10月26日、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズが銃を所持しているので、武装解除するべき」との市民の忠告を受け、バージルは、ワイアット、モーガン、友人のドク・ホリデイと共に彼らを武装解除するべく出かけたが、撃ち合いとなり、カウボーイ組5名中3名を射殺した。世に言うOK牧場の決闘である。

決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。この判決を受け、カウボーイズはバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは命を失う。その後、ワイアットはモーガン殺害の実行犯と見られたフランク・スティルウェルをツーソン駅構内で殺害したと言われている。この事件によってカウボーイズ派の郡保安官ジョン・ビアンにより逮捕状が出され、ワイアットはカウボーイズの追及を受けることとなる。一方ワイアットも連邦保安官助手の資格を得ており、保安官同士が互いを付け狙いあうという異常事態となった。

結果として、カウボーイズのリーダー格のカーリー・ビル、リンゴ・キッドが殺害され(アープ組が殺害したと見なされているが事実は不明)、ワイアット、ドク・ホリデイはコロラドに逃走して一連の事件は終息する。

ワイアット・アープを主人公とした作品[編集]

映画[編集]
荒野の決闘(ジョン・フォード監督、1946年、演:ヘンリー・フォンダ)
OK牧場の決斗(ジョン・スタージェス監督、1957年、演:バート・ランカスター)
シャイアン(ジョン・フォード監督、1964年、演:ジェームズ・スチュアート)
ワイアット・アープ(トゥリオ・デミケリ監督、1964年、演:ガイ・マディソン)
墓石と決闘(ジョン・スタージェス監督、1967年、演:ジェームズ・ガーナー)
ドク・ホリディ(フランク・ペリー監督、1971年、演:ハリス・ユーリン)
キャデラック・カウボーイ (ブレイク・エドワーズ監督、1988年、演:ジェームズ・ガーナー)
トゥームストーン(ジョージ・P・コスマトス監督、1993年、演:カート・ラッセル)
ワイアット・アープ(ローレンス・カスダン監督、1994年、演:ケヴィン・コスナー)

TV映画[編集]
保安官ワイアット・アープ(ウィリアム・A・グレアム監督、1994年、演:ヒュー・オブライエン)
  


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2014年04月22日

ローハイド


ローハイド





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『ローハイド』(Rawhide)は、1959年から1965年にかけて米CBSで制作・放送されたドラマ(テレビ映画、西部劇)である。日本では、同時期の1959年から1965年まで、NET(現テレビ朝日)系で放送された。その後、数度再放送が行われ、最近では2006年にNHK-BS1で放送された。

英語の"rawhide" は、「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味する言葉。ローハイドの主題歌では歌の合間に牛を追う掛け声と鞭音が鳴り響く。




目次
[非表示] 1 あらすじ
2 キャスト
3 その他


あらすじ[編集]

南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセタリアまで3000頭の牛を運ぶロングドライブを描く。

キャスト[編集]



役名

俳優

日本語吹替



ギル・フェイバー

エリック・フレミング

小林修



ロディ・イェーツ

クリント・イーストウッド

山田康雄



ピート・ノーラン

シェブ・ウーリー

金内吉男/羽佐間道夫



ウィッシュボーン

ポール・ブラインガー

永井一郎



マッシー

ジェームズ・マードック

市川治



ジョー・スカーレット

ロッキー・シャーハン

脇孝之/瀬下和久



ジム・ケンツ

スティーヴ・レインズ

藤岡琢也/梶哲也



ヘイ・スース

ロバート・カバル

小宮山清/野島昭生



クレイ・フォレスター

チャールズ・H・グレイ

大塚周夫



ジェド・コルビー

ジョン・アイアランド

大木民夫



サイモン・ ブレイク

レイモンド・サン・ジャック

宮部昭夫


その他[編集]
主題歌はフランキー・レインが歌い、彼もゲストとして出演していたことがある。作詞はネッド・ワシントン、作曲はディミトリ・ティオムキン。
NETテレビで放送された当時、番組スポンサーは寿屋(今のサントリー)だった。また同社の社長がパーティなどで「ローハイドのテーマ」を歌うのも恒例になっていたようである。
ちなみに後のサントリー会長の佐治敬三も「ローハイドのテーマ」を好んで歌っていたことに加え、1970年代には同ドラマから名前を取ったウイスキーが発売されたこともある。
2010年のNTTドコモのCM(渡辺謙・岡田将生出演)にも「ローハイドのテーマ」が起用されている。
  


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2014年04月22日

ローン・レンジャー

ローン・レンジャー





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『ローン・レンジャー』(The Lone Ranger)は、ジョージ・W・トレンドル(George W. Trendle)、フラン・ストライカー(Fran Striker)原作の、西部劇を題材としたラジオドラマ。またそこから派生したコミック作品、テレビドラマ、劇場映画作品。




目次
[非表示] 1 概要 1.1 「キモサベ」の意味
1.2 インディアンと「トント」

2 テレビドラマ
3 映画 3.1 西部の王者 ローン・レンヂャー
3.2 ローン・レンジャー 失われた黄金郷
3.3 ローン・レンジャー (3作目)
3.4 ローン・レンジャー (ディズニー)

4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク


概要[編集]

1933年にラジオドラマが放送されて以来、アメリカン・コミックス化、テレビドラマ化(1949年-1958年、全221話)、映画化(1956年・1958年・1981年・2013年)もされた。

2013年、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズによる映画が製作された。

日本ではテレビドラマ版が1958年からテレビ放映され、黒い仮面をつけた主人公が白馬にまたがった姿が、アメリカ版『鞍馬天狗』として親しまれた。ネット系列はKRT→TBS系列→フジテレビ系列(ただし関西地区では当番組は関西テレビ放送にてネットされた)。カバヤ食品の一社提供[1]。ただし、KRテレビで放映されたときは百貨店の伊勢丹が一社提供していた。

主人公ローン・レンジャーが愛馬シルバーを発進させる時の掛け声「ハイヨー、シルバー!(Hi-yo Silver)」や、相棒であるステレオタイプなインディアンの青年・トントの台詞「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」(これは白人がインディアンに対し欺瞞で収奪を繰り返して来たことへの批判である)、トントが主人公を呼ぶ言葉の「キモサベ」などの流行語を生んだ。ローンレンジャーとトントは、オーロラ社からプラモデルが発売されるほどの人気を得た。

「キモサベ」の意味[編集]

原作者フラン・ストライカーが使った「頼りになる相棒=キモサベ(ke-mo sah-bee)」という言葉は、現代アメリカでは「kemo sabe」の綴りで非常にポピュラーな言葉となっている。しかし、ポタワトミ語だとされているこの言葉は、実際は由来がよくわかっていない。

ストライカーは、これを採用したのはラジオ・ドラマのディレクターのジム・ジュエルで、彼の義父が設立したキャンプ場の名として看板に「キモサベ」とあり、下に英語で“信頼できる奴”と書いてあったので、ジュエルがこれを採用したとしている。

またもう一方で、アメリカ民族学局(BAE)やスミソニアン協会は、これを南西部のテワ族インディアンの言葉だとしていて、ヤヴァパイ族の言葉で「kema」と「Sabe」は「友人」と「アパッチ族」を意味するとしている。

また、ジョン・D.ニコルズが編纂した「オジブワ族辞典」では、「Giimoozaabi(彼は覗き見する)」が語源だと説明している。サンディエゴ州立大学の言語学准教授ロブ・マルーフは、この「Giimoozaabi」が「潜入する人」、つまり「斥候」を意味するとしている。

インディアンと「トント」[編集]

「トント」はスペイン語で「間抜け」という意味だが、原作者はトントは五大湖地方のインディアン部族、ポタワトミ族の出身であり、こちらの「トント」は彼らの言葉で「野性の人」という言葉だと主張している。ちなみに、ポタワトミ族は北東部の部族で、19世紀に部族の一部がオクラホマ州に強制移住された歴史があるが、主人公が活躍する南西部とは直接縁はない。また、アパッチ族には「トント」と呼ばれている支族があるが、こちらはスペイン語の「間抜け」が由来である。トントはインディアンが異言語部族間で使った「指言葉」を全く使用せず、どんな部族のインディアンとも白人とも通じる言語能力を持っている。

インディアンの社会では、古くから「ポカホンタス」と併せて、「トント」は「白人にこびへつらうインディアン」の代名詞・蔑称として使われている。彼らの笑い話には、こんなものがある。

インディアン戦士群に包囲され、絶体絶命となったローン・レンジャーはトントにこう聞いた。「相棒よ、俺らはどうすればいいだろう? ("Now what do we do?")」 トントはこう答えた。 「おい白人、“俺ら”ってどういう意味かね?(=“ピンチなのはお前だけだ”の意)("What do you mean "WE", White Man?")」

テレビドラマ[編集]
主題曲:「ウィリアム・テル序曲」(ジョアキーノ・ロッシーニ)
ローン・レンジャー:クレイトン・ムーア(Clayton Moore)
トント:ジェイ・シルヴァーヒールス(Jay Silverheels、彼はモホーク族である)

映画[編集]

西部の王者 ローン・レンヂャー[編集]
1956年製作。テレビドラマ版の映画化。DVD『ローン・レンジャー劇場版』に収録。 監督:スチュアート・ヘイスラー
ローン・レンジャー:クレイトン・ムーア
トント:ジェイ・シルヴァーヒールス

ローン・レンジャー 失われた黄金郷[編集]
1958年製作。テレビドラマ版の映画化第2弾。DVD『ローン・レンジャー劇場版』に収録。 監督:ロバート・シャーファー、エリック・フリィーワルド
ローン・レンジャー:クレイトン・ムーア
トント:ジェイ・シルヴァーヒールス

ローン・レンジャー (3作目)[編集]

詳細は「ローン・レンジャー (1981年の映画)」を参照
監督:ウィリアム・A・フレイカー
ローン・レンジャー:クリントン・スピルスベリー
トント:マイケル・ホース

ローン・レンジャー (ディズニー)[編集]

詳細は「ローン・レンジャー (2013年の映画)」を参照

2007年5月に、制作統括ジェリー・ブラッカイマーとして、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズが『ローンレンジャー』を製作するという発表が行なわれた。

トント役にジョニー・デップ、監督に映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのゴア・ヴァービンスキーが決定していたが、2011年8月、撮影費が高額すぎることを理由に製作中止となった。(ただしこの際、予算削減などで話し合い、製作を再開する余地は残された)

その後、「2011年秋にはデップやスタッフ(監督・プロデューサー)らがギャラの削減に同意し、製作が再開した」との報道があった[2]。13年公開予定でゴア・ヴァービンスキーが監督に就任した。なお、ローンレンジャー役は若手俳優のアーミー・ハマーに決定している。

脚注[編集]

1.^ 「テレビ・コマーシャルの考古学」(世界思想社)220頁 2010年
2.^ “ジョニー・デップがギャラカットに応じる! 主演の西部劇『Lone Ranger』が再始動 MovieWalker” (2011年10月1日). 2011年10月1日閲覧。

関連項目[編集]
ジェームズ・リプトン
アメリカン・ヒーロー
  


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2014年04月21日

コルト社


コルト・ファイヤーアームズ





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コルト・ファイヤーアームズ(英: Colt Firearms、通称コルト)は、世界初のシングルアクションリボルバーを発明した陸軍大佐サミュエル・コルト(1814年7月19日 - 1862年1月10日)の興したアメリカ合衆国の銃器メーカー。創業は1836年。当初の社名は「Colt Patent Firearms」(コルト特許火器)。

コルト社は拳銃のほかに有名なM16やM4カービンなどを生産しており、同じアメリカの銃器メーカーであるスミス&ウェッソン社とはライバル関係にある。




目次
[非表示] 1 歴史
2 リボルバーのフレームについて
3 製品 3.1 回転式拳銃
3.2 自動式拳銃
3.3 アサルトライフル
3.4 グレネードランチャー
3.5 狙撃銃
3.6 機関銃
3.7 機関砲

4 関連項目
5 外部リンク


歴史[編集]

一般的にはコルト社がリボルバー(回転式拳銃)を開発したとされているが、サミュエル・コルトがリボルバーを開発した以前からリボルバーは存在していた。ただ従来のリボルバーは、撃鉄を起こし、シリンダーの位置を合わせ、トリガーを引くという原始的な完全手動式機構ものしか存在せず、連射や速射が困難であった。またコルト以前のリボルバーは、リボルバーとは言ってもシリンダーと銃身が分離していない「ペッパーボックスピストル」と呼ばれるタイプのもので、威力の割に重量があり実用的なものとは言い難かった。

そこでコルトは、ハンマーを起こすと同時にシリンダーが回転して次弾を定位置に移動し、後は引き金を引くだけで発砲が可能となる「シングルアクション機構」を開発。ハンマーを起こして引き金を引くだけで連射が可能となるメカニズムは、当時としては劇的な連射速度を実現した。しかし、初期のコルト社の製品は高価な上、武器としてはデリケートでもあった。そのため軍に制式採用されるには時間がかかっただけでなく、民間市場でも旧式でも安価で信頼性が高いフリントロック式やパーカッション(銃用雷管)式の単発銃に敗北、更には過剰な設備投資が災いし一度倒産している。

その後復活し、数々の傑作を発表していくが、リボルバーのメカニズム的には金属薬莢を使う弾薬の特許をS&W社に押さえられたり、ハンマーを自分の手で起こすことなく引き金を引くだけで連射できるダブルアクション機構の投入に遅れたりと、リボルバーのメカニズム的な進化としてはむしろ後手に回っている。ただし個々の製品の完成度そのものは高く、SAA ピースメーカーが陸軍の制式拳銃となったこともあり、19世紀末は業績そのものは順調だったと言えるだろう。

20世紀初頭にはジョン・ブローニングの設計による自動拳銃“ガバメント”M1911を開発。1911年から70年以上に渡って米軍の主力拳銃の位置を占め続け、1992年に制式指定こそ解かれたものの、現在でも一部で使用されているという傑作拳銃となっている。

しかしコルト・ガバメントに代わる制式拳銃を決めるトライアルにおいてコルト社が提出した新型拳銃はイタリアのベレッタM92(軍制式コードM9)に惨敗し、また従来回転式拳銃が主流だった警察などの公用関係や民間市場においてもヨーロッパ製の自動拳銃が席巻するに至り、もともとライバルのS&W社にシェアで大きく水をあけられていたコルト社は拳銃の生産からはほぼ撤退した。現在でも生産されている拳銃は伝統的な定番商品であるSAAとガバメントのみとなっている。

20世紀の終わりごろにカナダでAR-15をライセンス生産していたディマコ社を買収しコルトカナダ社に社名を変更した。

リボルバーのフレームについて[編集]

コルト社もS&W社と同様リボルバーのフレームサイズに規格を定めているが販売の際にこれらを表立ってアピールすることは無い。

フレームのサイズは7種類あり「Dフレーム」、「SFフレーム」、「Eフレーム」、「Iフレーム」、「Jフレーム」、「Vフレーム」、「AAフレーム」の順に大きくなっていく。主にDフレームはディテクティブスペシャルやダイアモンドバック、SFフレームはマグナムキャリー、Iフレームはパイソン、JフレームはローマンMK-IIIやトルーパーMK-III、VフレームはトルーパーMK-V、AAフレームはキングコブラやアナコンダに採用されている。

製品[編集]





パイソン
回転式拳銃[編集]
M1848 ドラグーン
M1851
シェリフズM1861
M1877 ライトニング
M1878 ダブルアクション
 M1889ニューアーミー/ネイビー
M1917
SAA ピースメーカー
アナコンダ
キングコブラ
ディテクティブスペシャル
パイソン
ローマンMkⅲ
オフィシャル・ポリス
トルーパー Mkⅲ
.41 ライトニング

自動式拳銃[編集]
M1900
M1903
M1905
M1908 ベストポケット
M1911 ガバメント
ウッズマン
ジュニアコルト
.380 ポケット・モデル





M16A4
アサルトライフル[編集]
M16
コルト・コマンドー
M4カービン
CM901
ローエンフォースメント・カービン
SCW

グレネードランチャー[編集]
M79 グレネードランチャー
M203 グレネードランチャー
EAGLE グレネードランチャー・・・カナダコルトのみ生産

狙撃銃[編集]
サワー(スナイパーライフル)・・・コルト・ファイヤーアームズのみ生産
PGWDTI TIMBERWOLF・・・カナダコルトのみ生産

機関銃[編集]
コルト・ブローニングM1895重機関銃
ブローニングM1917重機関銃
ブローニングM1918自動小銃

機関砲[編集]
チェーンガン・・・カナダコルトのみ生産
  


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2014年04月21日

真昼の決闘

真昼の決闘





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真昼の決闘



High Noon







監督

フレッド・ジンネマン



脚本

カール・フォアマン



製作

スタンリー・クレイマー



出演者

ゲイリー・クーパー
グレイス・ケリー



音楽

ディミトリ・ティオムキン



撮影

フロイド・クロスビー



編集

ハリー・ガースタッド
エルモ・ウィリアムズ



配給

ユナイテッド・アーティスツ
UA/松竹洋画部



公開

1952年7月24日
1952年9月17日



上映時間

85分



製作国

アメリカ合衆国



言語

英語



製作費

$750,000



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『真昼の決闘』(High Noon)は1952年製作のアメリカ映画。フレッド・ジンネマン監督による西部劇映画である。保安官が自分一人で殺し屋ギャングと立ち向かわざるを得ないという内容のジョン・W・カニンガム(John W. Cunningham)の原作「The Tin Star (1947) 」に基づく映画。




目次
[非表示] 1 概要
2 ストーリー
3 キャスト
4 主な受賞歴 4.1 アカデミー賞
4.2 ゴールデングローブ賞
4.3 ニューヨーク映画批評家協会賞
4.4 全米脚本家組合賞

5 その他
6 関連項目
7 注
8 外部リンク


概要[編集]

この映画の最大の特徴は、通常の西部劇では悪漢に立ち向かう保安官は、無敵のヒーローであるというイメージに反して、暴力を恐れる普通の人間として描かれている事にある[1]。アカデミー賞にて主演男優賞、アカデミー歌曲賞などを受賞した。作品賞の最有力株と言われながらも、受賞には至らず、『地上最大のショウ』に敗退した。「赤狩り」の真っ只中、リベラル派として有名だったフレッド・ジンネマン監督とカール・フォアマン脚本による作品に票を投じるのをアカデミー会員がためらったためと言われている。当時のマスコミは『地上最大のショウ』の受賞に関して「受賞理由=不明」と皮肉った[要出典]。作品の内容自体、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人を批判したものと読み取ることも可能であるが、ジンネマンは「政治的な意味はない」と否定している。 またAFIアメリカ映画ベスト100で33位にランクされている。 この映画の上映時間は85分だが、劇中内における時間経過もほぼ同じ約85分ほどの「リアルタイム劇」となっている。

ストーリー[編集]

ウィル・ケインはハドリーヴィルという町の保安官。彼は結婚したばかりで、その日を最後に退職する予定であった。そのウィルの元に、以前彼が逮捕した悪漢フランクが釈放され、正午の列車でハドリーヴィルに到着するという知らせが舞い込む。フランクは彼の仲間と共に、ウィルに復讐するつもりであった。

ウィルはエミイと共に逃げようとするが、思い直して引き返す。父と兄を殺された経験を持つクエーカー教徒のエミイは、正義よりも命の方が大事だと説得するが、彼の意思は固い。ウィルは仲間を集めに奔走するが、誰も耳を貸さない。判事は早々に町から逃げ出した。保安官補佐のハーヴェイは腕はいいが精神的に未熟な若者で、ウィルの後任に自分が選ばれなかった恨みと、かつてはウィルやフランクの恋人だった婚約者のヘレンとの因縁もあって協力を断る。酒場の飲んだくれ達はウィルよりもフランク一味を応援している始末。教会では意見が分かれて議論になるが、結局ウィルが町を去るのが一番良いという結論が出る。保安官助手たちは居留守や怪我を理由に辞退する。結局一人も集まらないまま、フランクの乗った汽車が到着し、4人の悪党相手にウィルの孤独な戦いが始まった。

ヘレンはハーヴェイにも町にも愛想を尽かし、エミイを連れて汽車に乗ったが、銃声が鳴り響くと、エミイは飛び出して戻っていった。ウィルは建物に隠れながら応戦し、2人を倒したが、肩を撃たれてしまう。そこへエミイが来て1人を撃ち倒すが、フランクに捕まってしまう。フランクは彼女を人質にとってウィルを誘い出すが、エミイが抵抗してひるんだ隙にウィルに撃たれる。住民が集まるなか、ウィルはバッジを投げ捨てると、エミイと共に去っていった。

キャスト[編集]
ゲイリー・クーパー:ウィル・ケイン
グレイス・ケリー:エミイ
トーマス・ミッチェル
ケティ・フラド:ヘレン・ラミレス
ロイド・ブリッジス :ハーヴェイ・ベル
ロン・チェイニー・ジュニア
ジャック・イーラム
リー・ヴァン・クリーフ:コルビー

主な受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]
受賞 アカデミー主演男優賞:ゲイリー・クーパー[2] アカデミードラマ・コメディ音楽賞:ディミトリ・ティオムキン アカデミー歌曲賞:ディミトリ・ティオムキン ※作曲、ネッド・ワシントン ※作詞(『Do Not Forsake Me, Oh, My Darlin』) アカデミー編集賞:ハリー・ガースタッド、エルモ・ウィリアムズ ノミネート アカデミー作品賞:スタンリー・クレイマー アカデミー監督賞:フレッド・ジンネマン アカデミー脚色賞:カール・フォアマン
ゴールデングローブ賞[編集]
受賞 主演男優賞 (ドラマ部門):ゲイリー・クーパー 助演女優賞:ケティ・フラド 作曲賞:ディミトリ・ティオムキン 撮影賞 (白黒):フロイド・クロスビー ノミネート 作品賞 (ドラマ部門) 脚本賞:カール・フォアマン 新人女優賞:ケティ・フラド
ニューヨーク映画批評家協会賞[編集]
受賞 作品賞 監督賞:フレッド・ジンネマン
全米脚本家組合賞[編集]
受賞 最優秀ドラマ脚本賞:カール・フォアマン
その他[編集]

元アメリカ合衆国大統領のアイゼンハワーやビル・クリントン、元首相の小泉純一郎らが好んだ映画といわれる[3]。

関連項目[編集]
リオ・ブラボー
ハワード・ホークス監督は、政治的意図とは無関係に、プロのくせに一般市民に助けを求める『真昼の決闘』の保安官が気に入らず、そのアンチテーゼとして『リオ・ブラボー』を作った。劇中でジョン・ウェイン演じる保安官は、市民から保安官助手を募ったらどうかという提案を「シロウトに何ができる!」と一蹴する。 ダーティハリー
クリント・イーストウッド演じるキャラハン刑事がバッジを投げ捨てるラストシーンは本作へのオマージュである。 荒野のストレンジャー
主演・監督はクリント・イーストウッド。「もし『真昼の決闘』の主人公が殺されていたら…」という思いつきから構想を得たという。主人公が訪れた町では、かつて1人の保安官が住民に見殺しにされて3人の悪党に嬲り殺されており、釈放された悪党たちがお礼参りに来るという設定。 アウトランド
『真昼の決闘』をSFに置き換えた作品 シャンハイ・ヌーン
タイトルは『真昼の決闘』の原題「ハイ・ヌーン」をもじったもの。 パブリックドメインDVD
本作はパブリックドメインとなっており、安価で入手可能である
  


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2014年04月20日

オーダーをした、ピースメーカー用ホルスター

私がオーダーをした、ピースメーカー用ホルスターが完成。本日納品されてきた。ワインレッドの革を使ったシブイいい、感じのホルスターが出来たと思う
オリジナルで星マークとBillyの刻印。
そして、使ってみると、いままでになく、速く拔ける、、唯一の相棒、となりそうだ、これを作ってくれたのはRise代表鬼武者HIROさんだ、とても、いい物をつくってくれた、ピースメーカーとビズリーのコンビシュートも、やれそうだ。


  


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2014年04月18日

夕陽のガンマン


夕陽のガンマン





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夕陽のガンマン



Per qualche dollaro in più



監督

セルジオ・レオーネ



脚本

セルジオ・レオーネ
ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ



製作

アルトゥーロ・ゴンザレス
アルベルト・グリマルディ



出演者

クリント・イーストウッド
リー・ヴァン・クリーフ
ジャン・マリア・ヴォロンテ



音楽

エンニオ・モリコーネ



撮影

マッシモ・ダラマーノ



編集

ユージェニオ・アラビソ
ジョルジョ・セッラロンガ



配給

ユナイト映画



公開

1965年12月18日
1967年1月27日
1967年5月10日



上映時間

130分
132分



製作国

イタリア
西ドイツ
スペイン



言語

イタリア語



製作費

600,000ドル



前作

荒野の用心棒



次作

続・夕陽のガンマン



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『夕陽のガンマン』(伊: Per qualche dollaro in più、英: For a Few Dollars More、原題の意味は「もう数ドルのために」)は1965年のイタリア制作のマカロニ・ウェスタンである。監督はセルジオ・レオーネ、出演はクリント・イーストウッド、リー・ヴァン・クリーフ、ジャン・マリア・ヴォロンテ。他にドイツ人俳優クラウス・キンスキーも悪役で出演している。日本とアメリカでは1967年に公開され、「ドル箱三部作」の第2作目に当たる。

1967年公開のマカロニ・ウェスタンに『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』(原題:Da uomo a uomo)という作品があるが本作及び『続・夕陽のガンマン』とは一切関係ない作品である。




目次
[非表示] 1 ストーリー
2 キャスト 2.1 主演
2.2 ギャング
2.3 その他のキャラクター
2.4 日本語吹き替え

3 概要 3.1 特記事項

4 脚注
5 外部リンク


ストーリー[編集]

2人の賞金稼ぎ、名無しの男(イーストウッド)とダグラス・モーティマー大佐、通称「黒ずくめの男」(ヴァン・クリーフ)は麻薬中毒の凶暴なギャング“エル・インディオ”(ジャン・マリア・ヴォロンテ)の首にかけられた賞金を狙う。インディオは西部で最も恐れられている悪党だった。2人の凄腕の賞金稼ぎが時に協力しながら、時にお互いを出し抜きながらインディオを追い詰めていく。

キャスト[編集]

主演[編集]
クリント・イーストウッド - モンコ(「名無しの男」、"モンコ"の意味はイタリア語で「片腕/不具者」)
リー・ヴァン・クリーフ - ダグラス・モーティマー大佐
ジャン・マリア・ヴォロンテ - エル・インディオ(スペイン語で“インディアン”という意味)

ギャング[編集]
マリオ・ブレガ - ニーニョ
ルイジ・ピスティリ - グロッギー
アルド・サンブレル - クチーリオ
クラウス・キンスキー - ワイルド
ベニート・ステファネリ - ヒューイ(別名ルーク)
ルイス・ロドリゲス - マヌエル
パノス・パパドプロス - サンチョ・ペレス
ウェルナー・アブロラット - スリム(クレジットなし)
エドアルド・ガルシア - ファウスト(クレジットなし)
エンリケ・サンティアゴ - ミゲル(クレジットなし)
アントニオ・モリーノ・ロホ - フリスコ(クレジットなし)
フランク・ブラナ - ブラッキー(クレジットなし)
ホセ・カナレハス - チコ(クレジットなし)
ナサレノ・ナタレ - パコ(クレジットなし)

その他のキャラクター[編集]
ダンテ・マジオ - インディオと同じ刑務所の囚人、元大工
ディアナ・ラビト - キャラウェイの女
ショパンニ・タラロ - サンタ・クルスの電信技士
ヨゼフ・エッガー - 地獄耳の老人
ロレンツォ・ロブレド - インディオを裏切った男
マラ・クルップ - メアリー、ホテルの主人の妻
マリオ・メニコニ - 車掌
ロベルト・カマディエル - 駅の店員
セルジオ・メンディサバル - トゥーカムケアリの銀行支店長
トーマス・ブランコ - トゥーカムケアリの保安官
ローズマリー・デクスター - モーティマーの妹(クレジットなし)
ピーター・リー・ローレンス - モーティマーの義弟(クレジットなし)

日本語吹き替え[編集]



役名

俳優

日本語吹き替え



NETテレビ

DVD



名無しの男

クリント・イーストウッド

山田康雄 (多田野曜平)

山路和弘



ダグラス・モーティマー大佐

リー・ヴァン・クリーフ

納谷悟朗 (納谷悟朗)

有川博



エル・インディオ

ジャン・マリア・ヴォロンテ

小林清志 (小林清志)

谷口節



グロッギー

ルイジ・ピスティッリ

大塚周夫 (大塚周夫)




ワイルド

クラウス・キンスキー

内海賢二




クチーリオ

アルド・サンブレル

寺島幹夫




サンチョ・ペレス

パノス・パパドプロス

雨森雅司




ニーニョ

マリオ・ブレガ

田中康郎




トゥーカムケアリの保安官

トーマス・ブランコ

北村弘一




ブラッキー

フランク・ブラナ

今西正男




レッド・カヴァナフ

ホセ・マルコ

緑川稔



()内は「日本語吹替完声版」での追加収録部分の担当声優
テレビ朝日版:初回放送 1973年4月8日NETテレビ系『日曜洋画劇場』(21:00-23:25の拡大放送)
テレビ朝日版では上記のキャストのほかに野沢雅子、槐柳二、富田耕生、寄山弘、大宮悌二、西山連、飯塚昭三、村越伊知郎、清川元夢、石森達幸、木原規之、渡辺典子、鈴木れい子が、DVD版では樋渡宏嗣が吹き替えを担当している。
2009年12月11日、セルジオ・レオーネ監督の生誕80周年を記念して『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』、『夕陽のギャングたち』を収録した6枚組のDVDセットが日本で発売された。「セルジオ・レオーネ 生誕80周年記念 夕陽コレクターズBOX -日本語吹替完声版- 」と題され、『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン』はテレビ放送でカットされた部分の吹き替えが追加収録されている。イーストウッドの吹き替えは逝去した山田康雄の代わりに多田野曜平が担当し、それ以外の主要な役はテレビ版と同じ声優陣が再び声を当てている(「夕陽のガンマン アルティメットエディション」および「日本語完声版」に収録されているテレビ版の音声は初回放送時の最長版ではなく、2時間枠での放送時にそれを更にカットしたものである)。

概要[編集]

『荒野の用心棒』のイタリアでの大ヒットで実力を認められたレオーネが、前作を大幅に上回る予算を与えられて製作した作品である。映画の大部分はスペインのアルメリア地方で撮影された。カルロ・シーミは本作品の撮影に当たり、“エル・パソ”の町並みのセットを砂漠に作り上げた。当時のセットは現存し、ミニ・ハリウッドと呼ばれる観光名所になっている。本作品でレオーネは独自の演出スタイルを確立、名実共にマカロニ・ウェスタンの巨匠と目されるようになった。

特記事項[編集]
現在、日本で発売されている『夕陽のガンマン』はすべてアメリカ版である。そのためイタリアの原版とは微妙に違っている。
主人公のあだ名はモンコ(Monco)であり、イタリア語で「片腕」。このあだ名の由来は、彼が銃を撃つときと馬に乗るとき以外決して右腕を使わないことである。
エル・インディオを演じたジャン・マリア・ヴォロンテのキャリアは舞台から始まっており、彼の演技は映画のキャラクターとしては大げさに過ぎるとして、レオーネは撮影中ヴォロンテに何度も抑えた演技をするように要請したと言われている[1]。
『荒野の用心棒』に引き続き音楽を担当したのはエンニオ・モリコーネである。レオーネは直接彼に音楽の指示をし、撮影前に完成したものもある。
イタリアには本作のパロディ映画 Per qualche dollaro in meno (英語:For a Few Dollars Less、原題を直訳すると「より少ないドルのために」)がある。
  


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